ソフトバンク・今宮健太が通算400犠打に迫る! まさに職人芸…「歴代バントの神様」の足跡を振り返る

ソフトバンク・今宮健太が史上4人目の通算400犠打まであと20に迫った(5月13日現在)。これまでに400犠打以上を達成した3人、川相昌弘(巨人‐中日、533)、平野謙(中日‐西武‐ロッテ、451)、宮本慎也(ヤクルト、408)はいずれも貴重なつなぎ役としてチームの優勝、日本一に貢献している。そんな“バントの神様”たちの足跡を振り返ってみよう。

まず1990年に吉田義男(阪神)の日本記録を更新する通算265犠打を達成したのが、西武時代の平野だ。

78年に投手として中日にドラフト外で入団した平野は、2年目に外野手に転向、スイッチヒッターの練習を重ねていたが、ある程度形になりかけた矢先の80年オフ、整理リストに入ってしまう。

だが、監督が試合後半の守備を重視する近藤貞雄に替わったことで、外野の守備固め要員として首がつながる。翌81年は、オープン戦で補殺を演じたことがきっかけで、110試合に出場。2番打者としてレギュラーになった82年には、毎日マシン相手に200球近くバント練習に励んだ努力が報われ、当時の日本新記録51犠打を記録するなど、攻守にわたってチームの優勝に貢献した。さらに西武移籍後の88年から5年連続でリーグ最多犠打を記録している。

そして、93年6月17日の近鉄戦でNPB史上初の通算400犠打を達成した。

「『またバントかよと』と思ったことがあるし、逆に違うサインが出ると『打っていいの』と笑顔になりそうになったこともありますが、納得はしていました。(中略)バントは僕にとって生活手段のようなものですし、当時のチームは、僕が送ったあとクリーンアップが得点につなげる確率がかなり高かったからです」(自著「雨のち晴れがちょうどいい。」(ベースボール・マガジン社)

「本当は2番より足を使える1番のほうが好き」と言うように、86年に盗塁王を獲得するなど、通算230盗塁。打率3割も2度記録し(通算1551安打)、ゴールデングラブ賞にも9度輝いている。

◆ 「世界記録」を更新した川相昌弘

この平野の記録を1998年に抜いたのが、川相昌弘だ。岡山南時代は投手で、82年のセンバツでは早稲田実・荒木大輔と投げ合った。83年にドラフト4位で巨人入り後、内野手に転向。須藤豊コーチの猛ノックで鍛えられ、2年目の4月24日の大洋戦で遊撃手として1軍デビュー。翌85年6月13日のヤクルト戦で最初の送りバントを成功させた。

そして、球団史上初の背番号「0」を着けた89年、岡崎郁が三塁に回ったあとの正遊撃手を勝呂博憲らと争い、2番ショートの座をかち取る。

「相手に嫌がられる2番バッター」を目指した川相は、バント練習にできる限り多くの時間を割き、89年にリーグ3位の32犠打を記録。翌90年から4年連続リーグ最多犠打を達成するなど(通算7度)、“バントの神様”と呼ばれるまでになった。

チームが連覇した89、90年はいずれもケガのため、優勝決定試合に出られなかったが、藤田元司監督に「お前のお蔭で優勝できた」と声をかけられたときは、「どんな誉め言葉よりもうれしい一言」(自著「明日への送りバント」KKロングセラーズ)だったという。

バントにこだわりを持ちつつも、「バントだけの男とは思われたくない」と打撃にも精進し、94年には初の3割(.302)をマーク。攻守にわたって長嶋巨人の日本一に貢献した。

その後も地道にコツコツと“職人芸”を披露しつづけ、98年8月15日の阪神戦で平野の日本記録を更新する通算452犠打、03年8月20日の横浜戦では、エディ・コリンズ(アスレチックスなど)の世界記録を更新する512犠打を達成した。

同年限りで現役を引退し、コーチに就任するはずだったが、シーズン終了直前に原辰徳監督が電撃辞任し、コーチ人事も混乱が続いたことから、10月6日、引退を撤回し、巨人を退団。テスト入団した中日で2度の優勝に貢献し、犠打の世界記録も現役最終年の06年までに「533」に伸ばした。

◆ NPB史上初の“快挙”

平野、川相に次いで史上3人目の400犠打を達成したのが、宮本慎也だ。1995年に逆指名の2位でヤクルト入りした宮本は、守備は即戦力ながら、打撃は非力。当時の野村克也監督も「お前に8番ショートをやる。打率は2割5分でいいから」と指示している。

「守るだけの選手」の評価を何とか見返してやろうと誓った宮本は、野村監督がミーティングで口にした「脇役の一流を目指せ」の言葉を「自分が目指すべき方向」と確信。右方向への強い打球を意識しながら打力アップに努め、00年に初めて3割をマーク。その後も安打を積み重ねて、12年5月4日の広島戦で史上40人目の通算2000安打を達成した。

その一方で、若松勉監督時代に2番を打った宮本は、01年にシーズン67犠打の日本記録を達成するなど、バントの名手としても名を馳せた。だが、本人は「私にとっての送りバントは、プロの世界で生き残る、しがみつくための武器でしかありません」(自著「歩─私の生き方、考え方─」小学館)と記録にはこだわっていなかった。

そして、12年9月26日の阪神戦で、通算400犠打を達成。2000安打を記録した選手が400犠打を達成するのは、NPB史上初の快挙だった。

同一シーズンに大記録をダブルで手にした41歳のベテランは「フリーに打つ打席が400減っているのだから、そういう意味ではまあまあすごい数字かな」と語っている。

文=久保田龍雄(くぼた・たつお)

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