「日本一の校閲集団」新潮社校閲部の矜持とは? 『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』対談

こいしゆうか氏によるマンガ『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』は、「日本一の校閲集団」とも言われる新潮社校閲部をモデルに、校閲者たちが個性豊かな文芸作品とどう向き合っているのかを描き出した作品だ。一冊の本が出来上がるまでの知られざる苦労や、作家と校閲者の関係性などが細やかに描かれており、読むといっそう本が好きになるマンガに仕上がっている。

著者のこいしゆうか氏と新潮社校閲部の丸山有美子氏に、本作誕生のきっかけや校閲という仕事の奥深さについて話を聞くとともに、校閲部の模様も取材させてもらった。(編集部)

■校閲は正しさだけを追求する仕事じゃない

丸山:新潮社校閲部を舞台にマンガが描かれると聞いて、最初、部内がざわついたんです。ネタになるような出来事なんて一つも起きない地味な仕事だし、一日中、微動だにせず仕事をしている人もいれば、そういえばもう何日も声を聞いていないなって人もいる。絶対に無理だ、と。それが、できあがったマンガを読んでみたら、とてもおもしろくて。

こいし:よかった……!

丸山:ふだん、同僚がどんなふうに仕事を進めているのか聞く機会がないので、興味深くもありました。当たり前ですけど、それぞれにスタイルがあるんですよね。メモのとりかた一つとっても、クセがありますし、アプローチの仕方もまるで違う。作中にもありますが、担当する作品にどこまで入り込むか、その線引きも人によって異なります。それでも基本的には「のめりこんではいけない」というスタンスを共有していると思っていたので、「もっとのめりこんでいい」と矢彦さん(※)が言っている場面などは、新鮮に感じました。

※新潮社校閲部の元部長で、有名作家から指名を受けるほどの名物校閲者。校閲者では作中で唯一、実名で登場している。

こいし:私も、取材しはじめたころに「のめりこんではいけない」というお話を聞いていたので、そういうものかと思っていたのですが、「のめりこんだからこそ見えるものがあったし、その指摘で作者からも大変褒められた」というお話をしてくださる方がいて。そういうこともあるのか、と思った実感を描きました。新潮社に限らず、広く校閲者の方に取材をしたので、いろんな方のスタンスがマンガには入り混じっていると思います。

丸山:書かれている内容にのめりこむと、誤字があっても気づかず読めてしまうことがあるので、注意しなくてはならないのですが、それとは別に、著者の文体に入り込むということはあります。自分が思う正しい言葉からはズレているけれど、著者の文体のクセを生かすとしたらこのままでよい、ということもあります。必ずしも正しさを求められているわけではない、というのは留意しなくてはならない点ですね。文体をきれいに整えた結果、作者の美点が損なわれてしまっては、本末転倒ですから。

こいし:正しさだけを追求する仕事じゃない、ということがわかって、私も「描けるかもしれない」って思いました。最初に編集者さんから校閲者のマンガを描きませんかと言われたときは、絶対に無理だって思ったんですよ。辞書をたくさん読んで勉強しなくちゃいけないイメージがあったから、私には難しすぎる、って。でもそうじゃない、どんなふうに目の前のゲラ(原稿を本のレイアウト通りに組んだ試し刷り)に向き合うのか、一人ひとりの心の流れや葛藤、仕事に対する矜持を掬いあげていけばいいんだと、取材するうちに気づきました。

丸山:主人公の九重(くじゅう)さんが、後輩に「(校閲の仕事は)最終的には好奇心だと思う」と言う場面がありますよね。2話目でその言葉が出てきたのが、私はすごく嬉しかったんです。世間的には粗探しをしていると思われることも多いけど、九重さんが言うように「文字や人、物事に対して興味を持って考えて調べる」のが私たちの仕事なんだと、こいしさんは理解してくださっているんだな、と。

こいし:そう言っていただけて、私もうれしいです。なんでそのセリフを書いたかは覚えていないけど(笑)。でも、お話を聞いているうちに、そういうことなんだなって私自身が思ったから生まれたセリフだと思います。

■菜の花が咲く時期になると司馬遼󠄁太郎さんの原稿を思い出す

丸山:アウトプットするためには、インプットしなければいけないんですよね。「校閲者それぞれが自分の好きなものにのめりこむ時間を持つのも大事で、それが本の内容を左右する校閲につながることもある」というセリフも作中にあります。私は昔、ギターを習っていたのですが、先生に「あなたは、あなたの人生以上に弾くことはできない」とよく言われたことを思い出しました。

こいし:そういえば、イラストレーション学校に通っているとき、私も似たようなことを言われました。好奇心を持ってアップデートできる人間でなくてはならない、そうでなくては細部を描くことはできないのだ、と。「なんで?」という好奇心を持たねばならないというのは、どんな職業にも共通しているのかもしれませんね。

丸山:まあ、どれだけ好奇心と情熱をもってとりくんでも、怒られることも多いのが校閲の仕事なんですけどね(笑)。気持ちは、わかるんですよ。自分が一生懸命書いたものを、いきなり現れた顔も知らない人に「ここは違うんじゃないか」とか言われたら、怒りたくもなるだろうな、と。

こいし:指摘したことに対して、ものすごい量の赤字を入れたゲラが返ってきて「ざまあみろ!」って書かれていたという話も聞きました。それについて矢彦さんが「ぼくら校閲と作者はゲラで戦うんだ」とおっしゃっていたのがとても印象的で、マンガにも描かせていただいたんですけれど。

丸山:作家さんは、命を削って書いているわけですからね。私も、敬意と覚悟をもって挑まなくてはならないなと思わされた出来事がありました。私が入社したのは1996年4月、司馬遼󠄁太郎さんが亡くなられた直後で、書店に雑誌の追悼号が並んでいた時期。新潮社に保管していた直筆原稿も、ご遺族にお返しするために整理していたところで、当時の校閲部の担当役員がその手書き原稿を見せてくれたんです。彼女は、長らく司馬さんの担当編集者だった人でした。

四百字詰めの原稿用紙に書かれた文章を、推敲して削って直し、欄外の大きな余白に書き入れている。それをまた推敲して、削って、足して、削って、足して……を繰り返した痕跡がすべて、その原稿用紙には残っていました。結果、最初の文章は一文字も使われていなかったのですが、欄外の文字を繋いでいくと、ちょうど四百字におさまっていたんですよね。

こいし:すごい……。

丸山:すごいですよね。一度生まれた文章の種をこんなふうに練り上げていくのかと圧倒されましたし、こうやってできあがる文章に私は何か物申さなくてはならないのかと思うと、怖気づきそうになりました。まだ、配属されて三日目くらいでしたしね。でも……文字をつなぐ黄緑と黄色の色鉛筆の跡がまるで菜の花のように美しくて。今でも、菜の花が咲く時期になると司馬さんの原稿を思い出し、このときの気持ちを取り戻します。

こいし:手書き原稿の時代だからこその体験ですね。

丸山:そう思います。完成原稿だけがデータで送られてくる今は、葛藤の痕が見えないけれど、どの作者のなかにもあの菜の花があるのだということは忘れないようにしたいです。

こいし:そういう、書く人に対する敬意がないと務まらない仕事なんだろうなというのは、取材を通じて実感しています。確かにゲラを通じて戦ってはいるんだけど、矢彦さんにも、ほかの校閲者の方々にも、「ミスを見つけて直してやろう」みたいな気持ちは一切ない。「校閲とは検閲ではない」と、新潮社の校閲講座の冊子にも書かれていましたよね。

丸山:ああ、元部長がつくった、校閲とは何かを解読するテキストですね。手書きのイラストも添えて。

こいし:体調が悪いときにはミスが生まれやすい、集中するためにも自分を安定させなきゃいけない、など、テクニック以外についての指南もあって、おもしろかったです。SNSで誰もが公に発信する今の時代、校閲の技術を身に着けることは誰にとっても役に立つのだということも。

■その言葉がどんなふうに生きているかを考えたい

――SNSなど、ネット上では本来と違う言葉の使われ方がされていることも多いですよね。間違っているほうが、定着してしまうことも。

丸山:言葉は、変わっていくものですからね。たとえば「爆笑する」というのは「みんながどっと笑う」という意味ですが、今や一人でも大笑いしていれば爆笑していると表現されることも多い。「流れに棹さす」という言葉も、本来は「流れに乗る」という意味ですが、今は「流れに逆らう」イメージを持つ方がほとんどでしょう。そうなると、著者がその言葉を正しく使っていたとしても「誤解される可能性があるので変えますか」という指摘をいれることもあります。新しく生まれる言葉もあれば、消えゆく言葉もある。抵抗するのも大事でしょうが、伝わらなければ意味がないので「この言葉は、もうあまり使えないかな」と思った経験もあります。

――切ない……。

丸山:門番として立っている以上、私たちは最後まで確認し続けますが、兼好法師も「最近の若者の言葉遣いは……」と書き残しているので、きっとその繰り返しで今があるのだろうと思います。自分は誤用していないなんて、とてもじゃないけれど、言えませんしね。以前、子ども向けのワークショップをやったとき、わざと20か所の間違いを入れた文章を配ったのですが、本当に20だろうかとひやひやしていました(笑)。

こいし:もっとあるかもしれない(笑)。

丸山:そうなんです。断言しないし、判断しないというのも、私たちの仕事の特徴で。疑問を書き入れるときには「いかがでしょうか」とお伺いをたてるし、子どもたちにも「私が気づかないだけで20以上あるかもね」って言ってました(笑)。

こいし:言葉も生きている、っておもしろいですよね。このマンガを描き始めて、私も日々使っている言葉に対する意識が変わりました。正しいか間違っているか、ではなく、言葉一つひとつにどう向き合うか、その言葉がどんなふうに生きているかを考えたい、と。

丸山:そう思っていただけるなら、とても嬉しいです。

こいし:だって本当に、校閲のみなさんは、作品をよきものにするため、一生懸命向き合ってくださるから……。作中で九重さんが果朋のみたらし団子をもらうシーンがあるんですけど、串にささっている団子の数が実際と違うけど大丈夫ですか、と指摘してくださって。そこまで見てくれるのか!と驚きましたし、こんなに真剣にとりくんでくださるなら、私も頑張らなきゃと思えました。

丸山:矢彦さんの言うとおり、私たちは確かにゲラを通じて戦ってはいるんだけれど、決して敵ではない。チームなんだと思ってもらえるよう、つとめたいです。その気持ちが伝わって、ときどき嬉しい反応を著者の方からいただくこともあるんですよ。

――記憶に残っている反応はありますか?

丸山:そうですねえ。重松清さんは、校閲者の出した代替案をそのまま使わず、必ずご自身の言葉に書き換えられる方なのですが、一度だけ、私の提案をそのまま採用していただいたことがあるんです。「普段は校閲さんの例文をそのまま使うことはないけれど、この三行は書き換える言葉が一文字もない」というようなメモがゲラに貼ってあって……。あまりに珍しいことだからと、社に戻る予定のなかった担当編集者が、私に見せるため、急いで帰ってきてくれました(写真を見せる)。

こいし:すごい。「素晴らしい」「まいりました」って書いてある。

丸山:本当にうれしかったです。今でもそのメモをその本の該当箇所に貼って本棚にしまっています。校閲の仕事は基本的に減点方式で褒められることがほとんどないので、つらいことがあると、とりだして見ています。

こいし:先ほどの菜の花の話といい、今日のお話だけでマンガに描きたいことがいっぱいです。うかがった話をそのままエピソードとして描くのではなく、ちゃんと想いを受け取って、厚みのある物語として、2巻以降も届けていきたいと、改めて思いました。

丸山:ありがとうございます。今後も、楽しみにしています。

(文=立花もも)

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