スティーヴ・アルビニがスタジオで愛され続けた理由が分かる5つの作品

Photo: Paul Natkin/Getty Images

スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)の死後、ブルックリン・ヴィーガンに掲載された寄稿文の中で、ソニック・ユースの元フロントマンであるサーストン・ムーアは、彼に対する心からの賛辞を贈っている。その中でムーアは、この世を去ったばかりのこのミュージシャン/プロデューサーを「真の先見性に満ち、創造への衝動を喜びとして生きた人物」と表現した。

一見大袈裟とも思えるこのような賛辞も、アルビニという男にはまったくもって相応しい。彼は自身の専門分野において、まさに唯一無二の存在だったからである。残念なことに、しかし彼はシカゴの自宅で心臓発作を起こしたあと、まだ61歳という若さでこの世を去ってしまった――。2024年5月7日のことだ。

辛辣なウィットに富んでいた彼は、生前、アルバム制作において無駄のないアプローチを採ることでも有名だった。また、彼は最期まで”プロデューサー”という肩書きを嫌い、携わったすべてのプロジェクトで”レコーディング・エンジニア”としてクレジットされることを好んだ。そしてアルビニは、どんなときも、純粋かつ混じり気のないかたちでサウンドを作品に落とし込むことを目指していた。

その結果、アルビニが手がけるレコーディングは短時間かつ低予算で完了することでよく知られるようになった。実際、多くのアルバムはたった数日のうちに完成していたのである。その中で彼は楽器の音をルーム・マイクで録り、その空間の自然な残響をテープに収めた。また、アナログ機材を使用することや、ワン・テイクでレコーディングするといった手法を好むことも彼の特徴だった。

加えてアルビニは、自身の仕事に関して定額の報酬を受け取ることでも知られた。メインストリーム界で彼と同じ程度の実績を持つ多くのエンジニア/プロデューサーとは違い、彼が印税や収益の特定の割合を受け取ることはほとんどなかったのだ。

そしてアルビニは、作品に対して積極的に関与する姿勢も崩さなかった。そのため、シカゴに自らが所有するエレクトリカル・オーディオ・スタジオで仕事をともにするバンドとは、直接電話でやり取りしてコミュニケーションを取っていたという。

何より重要なのは、アルビニがレコーディング・スタジオとコントロール・ルームの両側から音楽業界での経験を積んでいたことだ。現代オルタナティヴ・ロック界を代表する偉大なプロデューサー/エンジニアとして名を上げる以前、彼はポスト・パンク/プロト・インダストリアルに分類される二つの有力バンドで、フロントマンとしてギターとヴォーカルを担当していたのである。さらにその後も、”ミニマリスト・ロック・トリオ”を自称するシェラックを30年に亘って率い、『At Action Park』(1994年作)や『1000 Hurts』(2000年作)などの作品で高い評価を得た。

だが結局のところ、”真の先見性に満ちた”この男は、現代音楽界屈指に型破りなスタジオ技師として語り継がれていくことだろう。彼が携わった作品は”数千作”に上るが、ここではスティーヴ・アルビニがスタジオで愛され続けた理由がよく分かる選りすぐりの5作品を紹介しよう。 

PJハーヴェイ『Rid Of Me』(1993年)

スティーヴ・アルビニは80年代後半から90年代前半にかけてピクシーズの『Surfer Rosa』やブリーダーズの『Pod』といった重要なアルバムを手がけ、アンダーグラウンド・ロック界の人気エンジニアとしての評価を確立。その評判を耳にしたPJハーヴェイは、アルビニが「アナログ盤では聴いたことのないようなサウンドを作り上げてくれる」と確信し、2ndアルバムの『Rid Of Me』の監修を彼に依頼したのだった。

好評を博した第一作『Dry』に続くアルバムとなった『Rid Of Me』は、アイランド・レコーズとのレコーディング契約を獲得したハーヴェイがメジャー・レーベルからリリースした最初のアルバムだった。制作中にどんどんと予算が跳ね上がったという事実はアルビニにとっては、仕事をする上でほとんど関係のない話だった。彼は2週間のうちにこのアルバムを完成させたのだ。

ハーヴェイとバンド・メンバーたち(ドラマーのロブ・エリスとベーシストのスティーヴ・ヴォーン)は、最小限のテイクで楽曲を形にしていった。そして、装飾を極力排したアルビニのアプローチは、『Rid Of Me』の制作手法として最適だった。同作には「Man-Size」「50 Ft Queenie」「Rub ‘Til It Bleeds」「Me-Jane」など、ハーヴェイの楽曲の中でも特に刺激的で生々しい楽曲も含まれていたが、結果としてアルバムはイギリスのアルバム・チャートの3位を獲得したのだった。

ハーヴェイはスピン誌のインタビューで、アルビニの制作手法についてこう話っている。

「むき出しでリアルなサウンドに仕上げたかった。そのアプローチが収録曲に合うことは分かっていた。まるで何か実態のあるものに触れているような、木の目の感触を手で確かめているような感じがするような」

 

ニルヴァーナ『In Utero』(1993年)

ニルヴァーナのカート・コバーンも、ピクシーズやブリーダーズとの仕事でアルビニに注目した人物の一人だった。そして当時、同グループは世界最大のロック・バンドといえる存在だったが、アルビニがその地位に引け目を感じるようなことはなかった。

ニルヴァーナの伝記を執筆しているマイケル・アゼラッドによれば、アルビニは彼らについて「レコード会社の言いなりになっているという点で、僕が仕事をしてきた有象無象のバンドと変わらない連中」と考えていたのだという。

それゆえ、アルビニはニルヴァーナからのオファーを承諾。だが『Rid Of Me』のときと同じく、メジャー・レーベルの潤沢な予算や大規模なレコーディング設備が同作に活用されることはなかった。それどころかニルヴァーナとアルビニは『In Utero』を2週間以内で制作すべく、ミネソタ州の田舎にあるパキダーム・スタジオに引きこもったのである。

結果として完成したアルバムのほとんどは、各曲の最初のテイクで構成されている。そのため同作は、エッジが効いていて、所々ぎこちなく、それでいて全編が魅力的な作風に仕上がった。そしてそのサウンドは、「Milk It」「Scentless Apprentice」、痛烈な皮肉のこもった「Radio Friendly Unit Shifter」など、危なっかしく絶望感すら感じさせるコバーンの楽曲とこれ以上ないほどマッチしていたのである。

アルビニの手による粗削りなサウンドは当初賛否を呼んだ(ゲフィン・レコードはR.E.M.の作品などを手がけていたプロデューサーのスコット・リットにいくつかの楽曲をリミックスさせてもいる)が、それでも『In Utero』は世界で1,500万枚以上を売り上げた。現在では、このアルバムが別のサウンドになっているのを想像することさえできない。

 

ヴェルーカ・ソルト『Blow It Out Your Ass, It’s Veruca Salt』(1996年)

ヴェルーカ・ソルトとは、ロアルド・ダールが1964年に発表した児童書『チョコレート工場の秘密』に登場する金持ちのワガママ少女がその名の由来である。1992年にシカゴで結成されたこのグループは、トゲがありつつもメロディアスなオルタナティヴ・ロックを奏でる4人組だ。そしてその音楽の武器は、グループの共同創設者で、ともにギターとヴォーカルを担当するニーナ・ゴードンとルイーズ・ポストの優れた作曲能力にある。

彼らは1994年に『American Thighs』(MTVで話題を呼んだ「Seether」を収録)を発表し、世間にインパクトを残した。そして、それに続く1997作『Eight Arms To Hold You』との合間にリリースされたのが、記憶に残るタイトルのEP『Blow It Out Your Ass, It’s Veruca Salt』だった。

アルビニが手がけた同作には、ポスト作の「I’m Taking Europe With Me」やゴードン作の「Shimmer Like A Girl」をはじめ、活気溢れる4つのオルタナ・ロック・ナンバーを収録。『Eight Arms To Hold You』ではアルビニに替わりボブ・ロックがプロデューサーを務めたが、それでも彼らとアルビニが手を組んだことで印象深い1作が生まれたことは確かだ。

メンバーたちはアルビニの死を受けて、ザ・ライン・オブ・ベスト・フィットに次のような追悼文を寄せた。

「幸運にも(スティーヴと)友人同士になれた私たちは、彼が驚くほど優しく、繊細で、気前の良い人だとよく知っている。面白く、ものすごく聡明な彼は、素晴らしい料理人でもあり、自分の愛する人たちを猛烈なほどの熱量で擁護する人だった」

 

ブッシュ『Razorblade Suitcase』(1996年)

ブッシュが1994年に発表したデビュー・アルバム『Sixteen Stone』は北米で大成功を収めた。しかし、UK出身の4人組である彼らには当初、ニルヴァーナ、サウンドガーデン、パール・ジャムといった大物オルタナティヴ・ロック・バンドにある頼もしさが欠けていた。そしてギャヴィン・ロスデイル率いるグループは、そんな状況を打開すべくアルビニを起用。『Sixteen Stone』に続く作品となった『Razorblade Suitcase』はアルビニの指揮の下、ロンドンのアビー・ロード・スタジオでのレコーディングを経て形になっていった。

ニルヴァーナの『In Utero』と同じように、『Razorblade Suitcase』は前作に比して断然生々しいサウンドとなった。そして、その粗削りな作風は苦悩に満ちたロスデイルの楽曲とよくマッチしており、結果として同作はアメリカで大ヒットを記録。猛烈なリード・シングル「Swallowed」の助けもあって、このアルバムは同国のチャートの頂点に立った。

『Razorblade Suitcase』の成功により、ブッシュは一部のメディアから高い評価を受けた。その中には、同作を1990年代における”グランジ界”最後の重要作と評すものもあった。そしてアルビニも、彼らの音楽を全面的に賞賛して批評家たちを驚かせた。例えばスピン誌に次のように語っていたのだ。

「僕はこのレコードに、これまで手がけてきたどのレコードよりもたくさんの時間とエネルギーを費やした。自分自身と共鳴することがなければ、あれほど長いあいだ何かに取り組むことはできないよ」

 

ジミー・ペイジ&ロバート・プラント『Walking Into Clarksdale』(1998年)

『Walking Into Clarksdale』は、元レッド・ツェッペリンのレジェンドであるジミー・ペイジとロバート・プラントが再び手を組み、絶賛されたアルバムだ。それゆえ背景事情を知らなければ、同作に招かれたアルビニがプレッシャーに押し潰されそうになっただろうと考えるのももっともである。

しかし、アルビニがのちに明かしている通り、このコラボレーションが実現したのは彼が熱心なツェッペリン・ファンだったからではない。実のところ、アルビニがこの仕事に選ばれたのは、無駄のない彼のアプローチのおかげだったのである。アルビニはクラシック・ロック誌にこう語っていた。

「彼らは最先端のプロデューサーとアルバムを作りたかったのだろう、と自惚れることだって出来たんだ。でも僕は自分が最先端だなんて特に思っていない。彼らのレコーディング手法はとても地に足がついていて、昔ながらのものだった。いまでは、あんな風にレコードを作る人はほとんどいないよ。僕がそういう手法を好むことも、彼らにとって魅力的に映ったんだろう。彼らは現代風のレコードを作ろうとなんて少しも考えていなかった」

とはいうものの、装飾を排したアルビニらしいサウンド作りは、結果として『Walking Into Clarksdale』に現代的なエッジを加えることとなった。事実、荒っぽくクセのある「Sons Of Freedom」や怒りに満ちた「Burning Up」、静と動の対比がニルヴァーナの作品を思わせる「Blue Train」などの楽曲は、90年代後半の流行に適合するサウンドである。

また、ロバート・プラントは『Walking Into Clarksdale』をモダンなサウンドに仕上げることで、ペイジとともに「25年前の出来事ではなく、数時間前の出来事で評価される」存在へと返り咲きたいと考えていたという。エッジが効いていて、その場の空気感をそのままテープに収めたような同作の作風は、そんなプラントの想いを見事に反映したものだといえよう。

Written By Tim Peacock

© ユニバーサル ミュージック合同会社