塚原重義監督「クラユカバ」「クラメルカガリ」で覗くレトロな世界【藤津亮太のアニメの門V 106回】

  

塚原重義監督の『クラユカバ』『クラメルカガリ』の2作を見た。『女生徒』『押絵ト旅スル男』などの短篇で知られるの塚原重義監督による長編(どちらも上映時間は約60分)だ。2作とも、2012年に発表された短篇『端ノ向フ』の延長線上にある、大正時代後半から昭和初期あたりを思わせるレトロな風景とスチームパンクを組み合わせた独特の雰囲気で出来上がっている。2つの作品(『端ノ向フ』を加えると3つ)を見ると、ひとつの世界を別々ののぞき窓から覗き込んだような感覚になる。

2作を見て思い出したのが氷川竜介の新書『日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析』(角川新書)だ。氷川は本書で、「世界観主義」というキーワードを使い、日本のアニメが固有のスタイルを獲得していく歴史を俯瞰した。『クラユカバ』『クラメルカガリ』もまた、氷川が指摘した「世界観主義」の流れの上に、はっきりと位置づけられる作品といえる。こういう作品が、インディペンデント系の作家によって制作されるのも興味深いところだ。2作は新潟国際アニメーション映画祭でも上映され、『クラユカバ』のほうはコンペインもしている。

氷川が「世界観主義」として使う「世界観」という言葉。これは、現在広く使われている「作品を特徴づける特徴的な設定」という意味では使われていない。ここでいう「世界観」とは、言葉の本来的な意味に添った「人が世界をどうとらえるか」という意味合いで使われている。

僕なりに「世界観主義」の意味するところを要約すると次のようになる。
作り手はその映像作品を通じて、「世界がどのように見えているか」を自分なりに表現しようとしている。その見えた方は映像の中で「連鎖で編み上げられた時空間の総体」(氷川)として表現される。観客は、この「時空間の総体」に対して、視覚的・聴覚的な読解を通じて没入していく。この「作り手が捉え表現した時空間の連続の没入」が作品づくりの中で大きな意味を持つ、というのが「世界観主義」という 。

この没入を促す重要な要素として、氷川が挙げるのが「信頼性や確実性を意味する『クレディビリティ』」だ。「『観客が架空の世界観を信用して自我を預けて没入するための力』です」(同)。空間的に正確なレイアウトや、美術やメカの緻密な描き込みなども皆、この「クレディビリティ」を強化するための手法のひとつという形で、位置づけられる。

『クラユカバ』『クラメルカガリ』は、強い「クレディビリティ」を持った映像で出来上がっており、だからこそ作品を見終わったあとに「特別な世界を覗き見た」という感覚が得られる。これは明治時代中頃に流行したパノラマ館(円筒形の場内を一周するように描かれた絵を、中央の見物台から眺める見世物。歴史的な戦場の風景などが描かれた)にも通じる部分があるように思う。

『クラユカバ』は、大帝都で発生中の連続失踪事件を、探偵である大辻壮太郎が追う物語だ。ここで鍵となるのが、大帝都の地下領域に広がる地下世界“クラガリ”。帰ってこない情報屋の少女・サキを助け、事件の真相を知るため壮太郎は、クラガリへと脚を踏み入れる。観客はこの壮太郎を通じて、この世界のアレコレに触れていくことになる。

本作のクレディビリティを担保しているのは、やはり第一に美術といえる。
木造建築があたかも自然増殖したかのように積み上がっている町の風景が、説得力と美的緊張を兼ね備えて描かれている。美的緊張は、クレディビリティを喚起するのに非常に大事な要素で、「なんか美しい」「なんかかっこいい」と感じさせるものがないと、それは単なる「焦点を欠いた風景」でしかなく、観客を没入させるまでに至らない。そこに使い古された木の様子、金属のサビの様子といった質感が加わる。さらに看板には、時代を感じさせる書体や並び順で書かれたさまざまな文字が並んでいる。このような情報量の多い美術が、本作への没入の地ならしをしているのだ。クラガリの中で壮太郎が見るインパクトある風景も、この延長線上に位置づけられ、見たこともないけれどクレディビリティを喚起するように描かれている。

しかし、美術がなんらかの形でクレディビリティの大きな要素を担うのは、アニメにとって基本中の基本と言ってもいい。本作はそこに、さらに2つの要素でクレディビリティが強化されている。

ひとつは、撮影効果だ。本作の映像は、茶系のムラがあるフィルターが重ねられたような独特のルックで作られている。これが画面に登場する以上の「レトロ感」を作品に与えている。また、情報量が多い美術がこのルックにより、クリアに見えづらくなることで、「あそこにあるものはなんだろう」「もうちょっとみたい」と観客がより画面に集中する効果も生んでいる。このルックだからこそ、氷川の指摘した「読解を通じて没入する」という方向へと観客は誘導されるのである。

もうひとつが音楽と声。アカツキチョータによる音楽がレトロな時代感があり、それが作品の世界を印象付けているのは間違いない。そこに加え本作では鍵を握るキャラクターに活動弁士の坂本頼光をキャスティング。この坂本頼光のリズミカルで古風な言い回しを聞かせる語りが、本作のクレディビリティを大いに印象付けている。

このようにして描かれた世界の中を、荘太郎は探偵として歩き回ることになる。本作ではクラガリは、大帝都というレイヤーの下に潜む、もう1枚のレイヤーで、荘太郎はそのクラガリというレイヤーを水平移動していくのである。水平移動だからこそ、世界のいろいろな場所を見た、という印象が強くするのである。

一方、もう1作である『クラメルカガリ』のほうはどうだろうか。本作は小説家の成田良悟が、『クラユカバ』第2回クラウドファンディングのリターンとして書いたスピンオフ小説が原案。それを塚原監督が再構成して映画として作り上げた。美術も、『クラユカバ』よりもスタッフのアイデアを生かす形で構築されており、塚原監督の世界を、別の人が別の角度から切り取ってみせたという度合いが高い。

本作の舞台は、「箱庭」と呼ばれる、かつての監獄跡地に出来た炭鉱町。周囲を監獄時代の高い塀に囲まれ、中心には炭鉱を経営する泰平砿業の高いビルがそびえ立つ特殊な空間で、ビルの下には関連中小企業や零細採掘業者が無数にひしめいている。主人公カガリは、この箱庭で地図屋として、日々変わる町の地図を書いて暮らしている。

『クラユカバ』では、壮太郎が「水平移動で世界のアレコレを見せる」役割を果たしていたのに対し、本作では「箱庭の外に出る/出ない」という「垂直移動」がドラマの根底に置かれ、全体的に上下方向の運動や対立が描かれる作品になっている。そういう意味では『クラユカバ』と『クラメルカガリ』の関係は、「続編」とか「スピオンオフ」というより「対」といったほうがしっくりくる。

だから「世界」の示し方も当然異なっている。もちろん魅力的な美術、独特なルックがクレディビリティの根底にあることは変わらない。しかし、さまざまな風景が世界の姿として現れる『クラユカバ』に対し、『クラメルカガリ』は「箱庭」に関連するさまざまな立場の人間が登場するところに特徴がある。

カガリと同じ仕事ながら違う夢を持つユウヤ。地図屋から地図を買い取る、表向きは貸本屋を営む情報屋の伊勢屋。さまざまな機械を開発する朽縄爺。ある目的で箱庭にやってきた調査員のシイナとそれに協力する情報屋の飴屋。まだほかにも登場するが、この登場人物のアンサンブルから「箱庭」という社会が垣間見える。「箱庭」は美術だけでなく、このキャラクターたちの存在感も加わることで人間味のある空間になっている。こちらはクレディビリティの要素に、社会の存在感が加わっているのである。

『クラユカバ』のクラガリは、映画の舞台として魅力的に見えても、そこに暮らしたいと思うかどうかは悩ましい場所であった。それに対し、「箱庭」は多様なキャラクターがいることで、貧しくとも人の生きる場所として描かれており、暮らすなり遊びにいくなりしたくなるような空間として描かれている。

塚原監督はパンフレットで続編の構想もあると語っている。果たして大帝都とその地下世界は、次はどのように切り取られて描かれるのだろうか。キャラクターのドラマが区切りを迎えても、その向こうに「世界」が広がり、存在し続けているということもまた「世界観主義」のひとつの現れであることはいうまでもない。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜にで生配信を行っている。

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