「〝海の隼〟をあるく」番外編(前編) 按針が残した「思い」と「未来」 浄土寺・逸見道郎住職インタビュー 横須賀市

按針の菩提寺である浄土寺。「按針忌法要」「按針フェスタ」などを通じて功績を伝えている

日本にやって来た初めてのイギリス人、ウイリアム・アダムス。「三浦按針」として徳川家康に仕え、日本の歴史を変えるくらいの活躍をした裏には、2人の強い絆があったことは間違いないところだろう。いったい、この2人のタッグはなぜ成立したのだろうか。前編に引き続き、按針の人となりについて探っていこう。

17世紀が始まろうとする時、世界は激動の時代だった。まさに大航海時代の真っただ中、ヨーロッパの国々は世界各地に繰り出し、次々に領土を獲得していった。

例えばスペインは、まずキリスト教を広めて人々の精神に入りこみ、貿易でモノを持ち込み、その後に武力で侵攻し、土地と富を奪う──言わば当時の"侵略パッケージ"とも言える動きが、この時まさに日本をターゲットにしていたとも言えるのだ。

「徳川家康は、スペインがキリスト教の布教を強く推し進めることに懸念を抱いていたと思います」と逸見さんは語る。「しかし、それよりも交易から得る利益を優先せざるを得なかった。関ヶ原の直前ですし、依然として豊臣家が存続し、キリシタン大名も多かった。国の内外に問題を抱えながら、判断を下せるような世界情勢に関する正確な情報がなかった。そこに、アダムスが来たわけです」

ではなぜ、家康は彼を信頼したのだろうか。「これはもちろん想像ですが、アダムスは自分を大きく見せようとするタイプではなく、実直に、ありのままに事実を分析していたから信頼されたのではないか、と思います」。一方で家康は、戦乱のない平和な世の中を自らの手で作り出そうとしていた。とかく"狡猾(こうかつ)な古だぬき"というイメージが語られるが、「現実をありのままに受け止め、今起きている国難をすべて引き受ける、という心を持っていたのではないかと思うのです」。いわば徹底した"リアリスト"の2人が偶然にも惹かれ合った、ということなのかもしれない。しかしそれは偶然と言うには説明がつかないくらい、あまりにも劇的で、日本の歴史を変えた出会いだったのだ。

「按針は自分の手柄を自慢することもなく、ひたすら愚直に物事に取り組んでいく。家康から見れば、その飽(あ)くなき生き方は好感を持てたのかもしれませんね。(実直でロマンがない、という意味で)"食えない男"と思っていたかもしれません」。激動の時代、信頼できる相談相手としては絶対の存在だったのだろう。

「三浦按針を学ぶと、世界の動き、特にヨーロッパを中心とした宗教が見えてきます。これまで注目されてきませんでしたが、実は家康は日本の存亡をかけ西欧諸国と対峙したのです。家康が後にキリスト教の禁教を決断したのも、按針に船を造らせスペインに武威を示したのも、一連の流れのうちにありました。按針を見ると、外国の侵略を防ぎ、平和な日本を求め続けた家康の動きも見えてくるのです」

そういえば、本書でも「食えぬ奴め」と家康が按針を評するセリフが出てくる。同時に、按針から諸外国の動きやキリスト教布教の狙いなどの話を聞き、思いをめぐらす家康の顔も思い浮かんでくる。そんな2人の仕事の積み重ねが、今の日本の土台の一つになっているのだろう。

実は『海の隼』の初版が出版された一九九九年十二月十五日は、作者・大島昌宏の命日だ。その年の前半から病に侵されていたので、大島は当時、浄土寺に取材はできなかったようだ。

そんな中で、逸見さんから"食えない男"という言葉を伺った時、按針と父・大島をめぐる旅がようやく終わりを迎えたような気がした。

そう、按針は"食えない男"だったのである。ただひたむきに、目の前の課題に全力で向き合う強さを、彼は日本で発揮していただけなのだ。その思いが家康と響き合い、人を動かし、歴史をつくった──。按針の業績に関する記録が少ないのも、あるいは自分を誇ることをしない彼らしい、とも言えよう。

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さて、按針が亡くなった207年後に、もう一人の"食えない男"がこの世に生を受ける。小栗忠順(ただまさ)──彼も後に、外国の侵略を阻止し、日本の歴史を変える大仕事をしてみせることになる。次は、そんな小栗を追う旅に出かけていこう。

按針と小栗。2人の仕事人が愛したのは、紛れもなく、ここ横須賀だったのである。

【筆者プロフィール】藤野浩章(ふじの・ひろあき)ライター。1971年横須賀生まれ。本紙では2018年から「ミドリヤのひと」「ホーム・アンド・アウェイ!」など4作の連載小説をペンネームで執筆。市内企業に勤務

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