【寄稿】「映画『オッペンハイマー』」 核開発参加は「名誉」か? 山口響

 公開中の映画「オッペンハイマー」について、「核開発の正当化にすぎない」とするものから「反核映画」とするものまで、真逆の評価が入り乱れている。「原爆の父」と謳(うた)われつつ、原爆を生み出してしまったことに苦しむオッペンハイマーを題材にした時点で予想できたことだろう。
 「広島・長崎が描けていない」とする批判もある。被爆の状況はオッペンハイマーの〈幻視〉として暗示されるのみだ。しかし、私自身はこの見解には与しない。それよりも核開発の描き方自体を問題にすべきだ。
 映画前半は、ロスアラモス研究所の所長に就任した当初のオッペンハイマーの自信が原爆投下「成功」後に苦悩へと変わる様子を描く。劇中、ある音が文字通りの通奏低音として鳴り響くが、彼への称賛を意図したこの音は、彼にとってひとつの責め苦でもあった。この点を捉えれば「反核映画」との見方も採れる。
 他方で、計画を指揮した米陸軍グローブズ准将の描き方には不満が残る。機密保持を重視する「区分化方針」を時に曲げてでもオッペンハイマーを温かく見守る人物として彼を表現することで、男たち(あえてこう言う)が開発の困難を克服する様が強調され、原爆の負の影響は後景化した。被ばくの影響に科学者が言及するのは一シーンのみ。実際の歴史では、多くの科学者や医師らが計画遂行中から警告を発していた。
 物語は後半に入り、米原子力委員会のストローズ委員長の奸計(かんけい)にかかって、過去の共産主義とのつながりを蒸し返された主人公が核開発の機密情報へのアクセス権更新を拒絶される一件が中心となる。
 しかし映画では、ストローズによる私怨(しえん)の線が強すぎ、背後の核開発の動きは見えない。彼がオッペンハイマーを聴聞にかける1カ月前、ビキニ環礁での「ブラボー」水爆実験を強行したことへの言及は一切ない。オッペンハイマーは、水爆開発には強く反対したが戦術的原爆は支持したこともあまり強調されない。
 そもそも映画では、オッペンハイマーが機密アクセス権更新を求めて闘ったことの意味が追究されていない。もし彼が核開発への参加自体を嫌悪していたのなら、アクセス権非更新は「不名誉」ではなく、血塗られた手をぬぐう僥倖(ぎょうこう)ではなかったか。
 しかし映画は、聴聞手続きの不当さを強調することで主人公へのシンパシーを掻き立て、核開発への参加をひとつの「名誉」と思わせる方向へ観客を誘ってしまう。これを「名誉」と誤認させる核維持の「システム」そのものを私たちは見る必要があろう。

 【略歴】やまぐち・ひびき 1976年長与町出身。「長崎の証言の会」で被爆証言誌の編集長。「長崎原爆の戦後史をのこす会」事務局も務める。長崎大学非常勤講師。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。

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