『映画のそばにいて』渡辺祥子【連載:日本映画ペンクラブ リレーエッセイ】

評論家、翻訳・字幕製作者、監督、映画記者など「映画というワンダーランド」に深く関わっているプロフェッショナルの集団「日本映画ペンクラブ」のメンバーが、毎回自由なテーマで読者にお送りするエッセイのページです。今回は「日本映画ペンクラブ」の代表幹事でもある映画評論家。渡辺祥子さんです。(文・渡辺祥子/デジタル編集・スクリーン編集部)

日本映画ペンクラブ
日本映画ペンクラブは、映画はじめ映像に関する評論、報道、出版、放送などに従事するプロフェッショナルの組織で、映像文化の発展と表現の自由に寄与することを目的として1959年11月に創立。国際的映画評論家の組織であるFIPRESCI(フィプレッシ)に加盟し、世界各国で開催される国際映画祭への審査員の招待・派遣の窓口の日本唯一の団体。
公式サイト:https://j-fpc.com/

渡辺祥子(わたなべさちこ) プロフィール

映画評論家、日本映画ペンクラブ代表幹事。埼玉県生まれ大学卒業後、雄鶏社に入社。月刊「映画ストーリー」編集部を経て、フリーの編集者、映画評論家として活躍。 著作「"食"の映画術:映画の中の食べ物から見た世界」近代映画社(Screen新書)など多数。

小学1年生の時、ディズニーの「白雪姫」を見てずっと映画のそばにいようと決めました。そばにいるってどんなこと? 毎日映画を見て、仕事も映画に関係すること…でも、どうすればそんな生活が出来るのか? 自分でもわからないまま月日が過ぎ、大学卒業後、偶然見た新聞の求人広告に応募して映画雑誌の編集者になり、願っていた通り映画のそばにいる生活が始まった。

小学5年生くらいになったときに見た「知り過ぎていた男」のあまりの面白さにアルフレッド・ヒッチコック監督の名をおぼえ、夢中になった。その頃テレビでドラマ・シリーズ、ヒッチコック劇場が放送されていて週に1度の放送が楽しみだった。

以来、好きな監督はヒッチコック、とは言っても「サイコ」を見てあまりの怖さに一時期彼が嫌いになったことがある。彼の描く怖さはただ怖いのではなく、どこかにユーモアを忘れていないのが魅力なのだが「サイコ」はただ怖かった。

この「サイコ」が日比谷劇場で公開された初日、劇場の周りを三重に取り囲んだ観客の大群の中に私はいたのだが、のちにたまたまこの初日の混雑の話になったとき、夫がこの群れの中にいたことを知った。

怖い映画は本当にダメで「サイコ」のアンソニー・パーキンスの母親の死体が恐く、このシーンの写真を自分の目で確認するまでに五年くらいかかったが、もう一つ見られない怖いシーンが「ジョーズ」の中の、人の首が海底にころがるシーンだ。これは字幕翻訳の戸田奈津子さんからうかがった話だが、スピルバーグ邸にはこの首がごろりの写真が飾られていたそうだ。

スピルバーグって変な奴、悪趣味とは思うけど、でも彼の監督作はどれも好き。何か私とつながるものがあるという気がするのは、いろいろ出会った彼の資料によれば彼が私と同じディズニー育ちだからではないか?

「白雪姫」に「バンビ」「海底2万マイル」などいろいろ。そして沢山のドキュメンタリーを見ながら大人になったディズニー育ちの映画作家や映画ファンは世界中にたくさんいることだろう。

若い日のスピルバーグは「ジョーズ」や「未知との遭遇」「E・T」などで大ヒット監督の名をほしいままにしていたとき黒人女性作家アリス・ウォーカーのピューリッアー賞受賞小説「カラー・パープル」を映画化。

1985年の第56回アカデミー賞の10部門11賞の候補に挙がりながら全敗の記録を作ったのだが、そのミュージカル版リメイク作のことを書くために昔のデーターを調べようとスクリーン誌の「カラー・パープル」紹介号、1986年9月号を調べてビックリ、なんと渡辺祥子が書いていた…。

すいません、書いたこともすっかり忘れていた、というのが小学1年で映画のそばにいたいと願い、大学卒業後に映画雑誌の編集者になり、やがて会社をやめてフリーの映画ライターになった私の経歴です。

会社をやめ、何年かして映画に関係する職業についている人々を会員とする職能団体、日本映画ペンクラブに参加、会員の投票で10人ほどが決まる幹事になって7年(8年?)が過ぎたいま、業界の一番の話題が「オッペンハイマー」という2024年2月現在、昔の資料の山を整理していた時に見つけたのがオッペンハイマー役を演じて話題の人になっているキリアン・マーフィーと一緒に写った自分の写真だった。

あれはたしか彼がケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」(2006年)のキャンペーンで来日、彼にインタビューをした際、雑誌の担当者がたまたま撮って素敵な額縁に入れて贈ってくれたものだ。こんなことは初めてだったから大切にしてきたが、大切にしすぎてしまい込み、忘れていたとは。

まさかあの地味で物静かだった彼が話題の大作の主演俳優になるとはね、とビックリ。ずっと映画のそばに居続けるとこんなことが起きて退屈するひまがない。映画の仕事をはじめてから一度も他の仕事をしようと思ったことはないけれど、いまあらためて映画が大好きで幸せだったと思う。

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