【三国志】 諸葛亮の涙 「なぜ馬謖は処刑されなければならなかったのか?」

泣いて馬謖を斬る」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか?

これは、中国の三国時代に由来する有名な故事成語で、「大切な人であっても、決まりを破った者は厳しく処分する」という意味を持ちます。

この言葉は、馬謖(ばしょく)という三国時代の人物に関わる出来事から生まれました。

馬謖の生い立ち

画像 : 馬謖(清代『三国志演義』より) public domain

馬謖(ばしょく)は、字を幼常(ようじょう)といい、襄陽郡宜城県(現在の中国湖北省襄陽市)の出身です。

襄陽の名家「馬氏の五常」の五男、末っ子でした。
劉備が荊州を支配するようになると、兄の馬良とともに従事として取り立てられ、人並みはずれた才能を持ち、軍事戦略を好んで論じました。

そして丞相の諸葛亮からも高く評価されていました。

そんなエリート街道を歩んでいた馬謖が、なぜ斬られる運命にあったのでしょうか?

なぜ馬謖は斬られたのか

馬謖は、蜀の諸葛亮が国運をかけた第一次北伐(西暦228年)において、街亭の戦いで先陣を任されました。

画像 : 清代の三国志演義で描かれた張郃 public domain

魏の敵将・張郃(ちょうこう)を迎え撃つために街亭に向かいましたが、諸葛亮の指示に背き、戦場経験の豊富な副将・王平の反対を押し切って山頂に陣を築きました。これは「高い場所に布陣する地形の優位」を信じてのことでした。

諸葛亮は馬謖に「山頂に布陣してはいけない」と戒めていました。これは山頂に布陣すると水源の確保が難しくなるためです。

しかし馬謖は、孫子の兵法書にある「一たび将軍として任命されれば、陣中では主君の命令に従わないこともある」という言葉に従い、諸葛亮の指示を無視したのです。

張郃はこれを知ると、早々に勝利を確信しました。
麓に柵や営塁(土や石を積んだ砦のようなもの)を築き、魏兵に防御を固めさせ、四方向から山を包囲しました。

防御が完成すると、次に張郃は蜀軍の水源を絶つ作戦に出ます。
馬謖は慌てて水源を奪還するために動きましたが、その命令は妥当性を欠き、蜀軍は次第に崩れていきました。

馬謖は撤退を決断し、命からがら諸葛亮の元に戻りました。

諸葛亮は馬謖の才能を愛していましたが、命令違反による大敗の責任を問うため、泣く泣く馬謖を処刑したのです。

馬謖の評価と背景

画像 : 泣いて馬謖を斬る イメージ

馬謖は正史『三国志』にも「並外れた才能の持ち主」と記述してあり、諸葛亮からも高く評価されていました。蜀は人材が乏しく、新たな士官を求めていたため、馬謖は将来有望な逸材と見なされていました。

第一次北伐の際にも、劉備の荊州時代以来の配下で武勇に優れた魏延や、偏将軍・呉懿を推す声がありましたが、 後継を育てるためにも諸葛亮は馬謖を採用したのです。

しかし、劉備は馬謖を評価せず、「言葉ばかりで実力が伴っていない」として、重要な任務を任せないよう諸葛亮に忠告していました。

劉備は馬謖を嫌っていたわけではないのでしょうが、彼の性格を見抜いていたのかもしれません。

現代において

現代のドラマや映画では、上司の命令に背いて成功を収めるストーリーがよく見られますが、馬謖はそのような成功を望んでいたのかもしれません。エリート家系の末っ子として、優秀な兄にはまだ実績が及ばず、直属の上司である諸葛亮には気に入られていた馬謖。

第一次北伐での街亭の戦いは一世一代のチャンスでしたが、独自の判断で大勝負に出た結果、大敗してしまいました。

諸葛亮は、愛していた部下を泣く泣く処刑し、自らも3級降格処分を希望しました。これは厳しい処分を下す際に私情を排除し、規律を守ることの重要性を強調するためでした。このような行動は軍の一体化を促し、諸葛亮の人望をさらに厚くしました。

現代においても、規律を守ることの重要性は変わりませんが、「泣いて馬謖を斬る」上司の姿は、見せしめのように感じられるかもしれません。

参考文献:正史三国志

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