伊坂幸太郎の小説は韓国でどう映像化された? Netflix『終末のフール』の隠れたテーマ

『ディープ・インパクト』(1998年)や、『アルマゲドン』(1998年)、はたまた『インデペンデンス・デイ』(1996年)や『宇宙戦争』(2005年)のように、宇宙から飛来した隕石や小惑星だったり、地球の支配を狙う宇宙人の侵攻によって人類が危機に陥るような内容の映画作品は、パニック、スリラージャンルに当てはまるイメージが強い。

だが時代を経て、『メランコリア』(2011年)、『メッセージ』(2016年)、『君の名は。』(2016年)、近年の配信ドラマシリーズ『インベージョン』、そしてアニメシリーズ『キャロルの終末』など、地球外からの大規模な危機を描いた作品のなかで、よりパーソナルな世界観を強調したものが、段階的に目立ってきているように感じられる。パニックやスペクタクルよりも、人間のドラマや個人の生き方の問題の方が、そこではフォーカスされているのだ。

日本の作家、伊坂幸太郎の小説を原作に、舞台を韓国に移し替え、韓国のスタッフ、キャストで製作されたNetflixシリーズ『終末のフール』(全12エピソード)もまた、地球への小惑星衝突の脅威を題材にしながら、そこで危機に対するパニックを描きつつも、地上に住む人々の感情や交流により力点を置いて、登場人物の内省的な部分を扱っていく作品である。

ここでは、そんな本シリーズ『終末のフール』が何を描き、何を示しているのかを、原作との違いや同ジャンルと共通する時代の流れ、実際の社会状況とのかかわりなどから考察していきたい。

伊坂幸太郎が在住し、よく作品の舞台にしている宮城県仙台市。小説『終末のフール』の舞台は、その北部にある丘陵地に造成されたという架空の地区「ヒルズタウン」だと、作中で示されている。筆者のように仙台市出身だったり、そこに在住したことのある人であれば、そのモデルとなっているのが、同じく仙台市北部、泉区の丘に造成された実在のニュータウン「泉パークタウン」であると類推できるのではないか。

小惑星の衝突によって人類の危機が訪れることが、数年前から世界中に知れわたってしまっている環境下において、登場人物たちは悠長に感じられるほど、普段の生活からあまり離れない行動をとっている。たしかに民心は乱れ、世の中は暴動や自殺が相次いでいる状況だ。しかし、圧倒的な天災に対して、ほとんどなす術がないのだとしたら、相当数の人々は“普通に生きていく”しかないのではないか。

高級住宅地である泉パークタウンには、中央にショッピングセンターが配され、家々の間隔が広く木々が生い茂る住居ゾーンと、スポーツができる広大な土地と施設が用意されている。そんな、暮らしやすい環境が整備されている地区が原作の舞台のモデルになっているのだとすれば、それはまさに自分たちの生活をこそ大事にしたいという、人間の切ない感情を描くのに相応しい場所だと考えたからではないか。

対して“韓国版”たる本シリーズは、その設定をかなり変更している。小惑星が朝鮮半島近辺に衝突することが予想されていて、韓国や日本、中国大陸の一部は甚大な被害を受けるが、アメリカ大陸やアフリカ大陸にいれば、助かる可能性があるというのである。そのため、本シリーズでは富裕層や一部エリートは自国を脱出し、移住の意志を持っていても、その資格がなかったり対価を支払えない人々、そしてそもそも脱出の意志がない者たちは、衝突の時期が迫っていても自国に居残っている。

さらには暴動や、人身売買や窃盗などの犯罪も、本シリーズでは直接的に描かれ、この状況下において“普通の暮らし”を維持することの難しさが示唆されている。また、宗教団体の信者たちの献金が内部の者によって奪われるという事件も発生し、人々を動揺させる。

そして本シリーズが、オムニバス形式であった原作よりも、それぞれの登場人物のつながりを強め、共通した問題に対処させる群像劇に変更されているのは、ドラマシリーズとしての力強さを獲得したかった試みがあったからだと理解することができる。

当初は、Netflix配信作品で大きな役を得てきているユ・アインのシーンがもっと多かったという。しかしNetflixシリーズ『マイネーム:偽りと復讐』のキム・ジンミン監督は、アインが不法に薬物を使用したスキャンダルを受けて、彼の役柄を小さくする編集を余儀なくされたと語っている。(※)

このように、さまざまな思惑と事態への対処によって、本シリーズは原作とは異なる印象を受ける作品となったが、それでも帰結するテーマは原作と共通している。それが最も表れているのが、中学校教師セギョン(アン・ウンジン)のキャラクターだ。

劇中で子ども自身が言及するように、やがて消滅することが予想されるこの場所では、“子どもは大人になれない”。にもかかわらず、セギョンは子どもたちの面倒をみて、その生活を守ることに生きがいを見出すようになっていく姿を見せるのである。

一見、それは無意味なことだと思えるかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、小惑星の衝突や、不慮の事故、重い病気を回避して寿命を全うしたとしても、一人の人間に与えられる時間が有限であることには変わりがない。そう考えれば、残された時間に個人差はありながら、本質的に全ての人々が死の運命を逃れられないのは一緒だといえるのではないか。

Netflixのアニメシリーズ『キャロルの終末』でも、主人公の中年女性が、本シリーズ同様の、惑星が衝突するというシチュエーションに巻き込まれる。そこでは主人公キャロルのように、周囲の人々が仕事を辞めて享楽的に過ごすなか、毎日事務職をこなし続けるという生活を選ぶ者が存在するという、一見奇妙な選択を描いていた。

しかしそれは、作中の人々の残された時間が、人間の一生が凝縮されたものと考えれば、とくに不思議なことではないのではないか。人生の目的が面白おかしく生きることだと考える人がいれば、日々の仕事に生きる意味を実感する人がいてもいい。残された時間のなかで、それぞれの人がそれぞれの生き方を選んでいるだけなのである。

フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、1970年代の終わりに著作のなかで、「大きな物語の終焉」という概念を示した。これは、人類の科学技術や文化が一定の成熟を見せたことで、それまで多くの人々にとって共通していた、人類の発展へと向かう哲学が効力を失ってしまっているという考え方である。つまり、それ以降の人々は、細分化された個々人の“小さな物語”を生きていくしかないということだ。

本シリーズが示すのは、そんな現代社会のある種の限界であり、また個人主義的に生きられる自由の素晴らしさなのではないだろうか。人々の価値観が分かれ、それぞれの選択が異なっていくことには寂しさをおぼえるところがあるが、自分自身の感情や考え方が優先できるようになったのは、けして悪いことではない。近年、とくに個人の視点から物語を描くようになってきているのは、このような社会の価値観の変化にゆるやかに対応してきているからだと考えられるのである。

だからこそ本シリーズは、そのような内的な平等が存在する反面、経済的な理由で自由がきかなかったり、力のない子どもたちが、未来を選べない社会状況にも光をあてているのではないのか。劇中で小惑星が衝突するとされている韓国や日本、中国などの国々では、とくにこの文化の成熟と格差問題との相反する関係が目の前の大きな課題となっているということが、本シリーズの隠れたテーマなのかもしれない。

参照
※ https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/04/20/kiji/20240420c000413K1025000c.html

(文=小野寺系(k.onodera))

© 株式会社blueprint