「私、逃げなかった」ハンセン病で得た生き方の魅力…96歳のかずゑさん

ハンセン病の国立療養所で80年以上暮らしている宮崎かづゑ(かづえ)さんを撮ったドキュメンタリー映画『かづゑ的』が全国で公開中。「私は栄光ある道を歩いている」「私、逃げなかった」と語る、前向きな96歳のかづゑさんに、熊谷博子監督は「人間にとって普遍的なこと」を感じた、と言う。RKB神戸金史解説委員長が話を聞き、5月14日のRKBラジオ『田畑竜介GrooooowUp』で紹介した。

『かづゑ的』生き方を描いた映画

岡山県瀬戸内市の「長島」という島にある、国立ハンセン病療養所、長島愛生園で暮らす宮崎かづゑさん。10歳で入所してからもう80年以上。現在96歳で、お元気です。ちゃきちゃきしています。この方を主人公にしたドキュメンタリー映画『かづゑ的』が現在公開中です。

ハンセン病は、慢性の感染症です。皮膚や末梢神経のほか、眼やのど・口などの粘膜、や内臓の一部にも病変が生じます。末梢神経が侵されると、熱い・冷たい・痛いが分からなくなり、ケガをしても気づかず、化膿した結果、切断しなければならなくなったり、さまざまな後遺症が起こったりします。

今は「ハンセン病」という病名ですが、かつては「らい病」と呼ばれ、患者は全員が隔離されました。入所者を懲罰のために監禁したり、不妊手術を施して子供を産めないようにしたり、様々な人権侵害が長く続きました。現在は医学の進歩で「治る病気」となっていますが、差別は根強いので、多くの入所者は療養所にとどまらざるを得ませんでした。

かづゑさんの手には、指が一本もありません。左脚はひざから下を切断しています。でも、買い物や料理などを周囲の手を借りながら自分でしています。夫の宮崎孝行さんもハンセン病の患者で、園内で結婚し暮らしてきました。映画の予告編から一部をお聴きください。聞き手は、この映画を撮影した熊谷博子監督です。

熊谷監督:今回なぜ、私達の撮影を受け入れてくださったんですか?

宮崎かづゑさん:基本的に、私は本当のらい患者の感情、飾ってない患者生活、「患者は絶望なんかしてない」っていうところを残したいんです。

宮崎孝行さん:前はね、私の方がようしゃべりよったんよ。で、このごろはもう、これ(かづゑさん)の方がもう親分みたいになってしまって。

完全にかづゑさんがリードしていく夫婦関係のようです。「患者は絶望なんかしていない」と、かづゑさんは言い切っていましたが、このあと映画の中でこんなふうに続けていました。「らい患者はただの人間、ただの障害を歩んできた。人間は人間性を失いません。どんな場所でも」。非常に明るくて、前向きなんです。

映画では、いきなり「私の体を見てほしい」と全裸で入浴するシーンも出てきます。一瞬、びっくりします。78歳でパソコンを覚えたり、84歳になって初の著作(『長い道』みすず書房刊)を出版したり、すごく読書家なので表現力が非常に豊かなのです。

口癖は「できるんよ、やろうと思えば」

監督の熊谷博子さんは、私(神戸)の友人です。私よりちょっと年上で、2016年から愛生園に通い始め、8年後の2024年、映画『かづゑ的』が完成しました。

※熊谷博子(くまがい・ひろこ)
東京都出身。1975年より番組制作会社のディレクターとして、戦争、麻薬などの社会問題を追ったドキュメンタリーを多数制作。85年にフリーの映像ジャーナリストに。主な作品は以下の通り。『幻の全原爆フィルム日本人の手へ』(1982)、『よみがえれカレーズ』(1989、土本典昭氏と共同監督)、『ふれあうまち』(1995)、『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005)=JCJ(日本ジャーナリスト会議)特別賞・日本映画復興奨励賞、NHK・ETV特集『三池を抱きしめる女たち』(2013)=放送文化基金賞最優秀賞・地方の時代映像祭奨励賞、NHK・ETV特集『原爆にさわる被爆をつなぐ』(2015)、『作兵衛さんと日本を掘る』(2018)

福岡市のKBCシネマで上映が始まっています。舞台あいさつの様子を取材してきました。

熊谷博子監督:主人公の宮崎かづゑさん。瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園に10歳からお住まいなんですが、2月7日で96歳になられました。大変にお元気です。かづゑさんは病気の後遺症で手の指が全て失われているんですが、絵を描かれてまして、絵筆をご自分で包帯で巻きつけて描かれた絵です。

熊谷博子監督:自分が両親、祖父母という家族からいかに愛されてきて、自分をいかにその家族を愛していて、自分がこの病気になったので悲しませてしまったことがつらい、と。ものすごくびっくりしてしまって。

熊谷博子監督:島に来るマスコミや見学者を含めて、「かわいそうなハンセン病患者」という前提で来る人たちに対して、かなり憤りを感じていらして。8年間撮らせていただいたんですけれども、口癖が「できるんよ、やろうと思えば」。行くたびに、かづゑさんのその言葉に励まされて、カメラとマイクを持ってかづゑさん・孝行さんの日常に伴走した8年間の結果が、映画になったということです。

熊谷監督は「この映画はハンセン病を背景にしていますが、決してハンセン病だけの映画ではありません。人間にとって普遍的なことを描いたつもりです」と話していました。非常に明るいのです。

憲法違反の「悪法」が隔離生活を強要した

5月12日午後、映画公開を記念したイベントが西南学院大学で開かれました。熊谷監督と対談したのは、ハンセン病訴訟の弁護団代表を務めた、福岡市の八尋光秀弁護士です。

※八尋光秀弁護士(西新共同法律事務所)
弁護士として患者の権利宣言運動に参加し、患者の権利法制定を提唱した。医療過誤訴訟、国賠訴訟、刑事冤罪弁護、精神科医療にかかわる患者隔離等、人命人権、人生被害をもたらす諸問題に取り組んできた。1998年よりらい予防法違憲国家賠償訴訟いわゆるハンセン病訴訟の弁護団代表となる。2001年熊本地裁での勝訴確定後も、ハンセン病問題の全面解決に向け、国との協議にあたる。2003年より薬害肝炎九州訴訟の弁護団代表となる。2008年薬害肝炎問題の全面解決を求めていわゆる薬害肝炎救済法を議員立法によって制定させるとともに、国との間で和解解決のための基本合意書を締結し、この問題の全面解決を図る。

八尋光秀弁護士:1人1人の人間が誇りを失わずに、絶望を繰り返しながら生きていく。「絶望ばかりしてられないよ」と、かづゑさんが言うところがね。かづゑさんのこの物語を見た時に私が思ったのは「私たちはどうするか」ということ。かづゑさんは、かづゑさんでやっていく。こういうことにしてしまった主権者の私たちは、どういうふうに反省して、同じような法律や政策をさせないようにできるのか、考えないと。他人事ではいけないなと思うんですよ。

熊谷博子監督:それもこれも、「らい予防法」という悪法があって、絶対隔離は法律で決められていたからそうなったんですよね。

八尋光秀弁護士:そうなんです。法律でやり始める前は、近くの人に優しい人も冷たい人も嫌がる人もいるけど、「いやいやそんなこと言ったってお前」って、10人のうち1人ぐらいは親しくできる人がいたわけです。ところが法律ができてしまうと、もう(療養所に)入れなくちゃいけないんだからと亡霊みたいになって、「一緒に」と思っている人の気持ちはもう絶対許されなくなる。法律とか制度とか政策以外は許さなくなっちゃう。「お前、ここで感染者をどうするんだ」「どんどんもうみんな(ハンセン病に)なるぞ」とか言われると、もうほとんど無抵抗状態になるじゃない。

「らい予防法」は1996年にやっと廃止されました。2019年には、安倍晋三総理大臣(当時)が全面的に謝罪しています。予防法は基本的人権の尊重を原則とした日本国憲法に違反していた、と。

現在も療養所は全国に14か所あり、現実的には「ハンセン病の後遺症がある障害者の特別養護老人ホーム」のような役割となり、800人以上が暮らしています。映画は、美しい島の四季を記録していますが、かづゑさんは「この島は不思議な島でねぇ。天国だし、地獄だしね」という言い方をしていました。

『かづゑ的』な生き方に魅了

かづゑさんの夫、孝行さんは、福岡の直方市出身です。この夫婦は、本当に仲が良くて、映画を観ているとしみじみ伝わってきます。見た目では、ハンセン病の方にはいろいろあるのですが、いつの間にか気にならなくなって、夫婦の物語を観ている気分になってきます。そして、『かづゑ的』な生き方に僕らが魅了されていく映画です。96歳になった今、水彩画に取り組んでいるんだそうですよ。

映画『かづゑ的』は福岡市のKBCシネマで上映中。佐賀市のシアターシエマでも、5月24日から2週間、上映が予定されています。

◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)

1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。ニュースやドキュメンタリーの制作にあたってきた。報道部長、テレビ制作部長、ドキュメンタリーエグゼクティブプロデューサーなどを経て2023年から報道局解説委員長。最新ドキュメンタリーは映画『リリアンの揺りかご』(U-NEXTで有料配信中)。

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