でもしか先生

 他にやりたい仕事もないから学校の先生にでもなるか、とか、特別な技能はないから教員にしかなれない、とか…。消極的な動機で教職に就いた人たちを指す「でもしか先生」という言葉が昭和の時代にあった▲背景には、戦後のベビーブームや学制改革などによる教員数の不足があったとされる。大量採用の時代。極端に言えば、誰だって先生になれたのだろう▲きっと、筆者の学校時分にもそうした先生は教壇にいたに違いない。でも、幸いなことに誰が「でも・しか」で、誰がそうでないのか、子どもの目には分からなかった。先生方は皆、とても立派に見えた▲人間が相手のとても大変で、とても忙しく、とても大切な職業だ。「でも」だの「しか」だのと教師になった動機を振り返っている暇はなかったのかもしれない。生意気を承知で言わせてもらえば、立場と現場が人を育てていたか▲令和の今、「でもしか」は死語になり、先生のなり手不足が指摘されて久しい。給与の底上げなど教員の確保に向けた処遇改善策をまとめた中教審の提言の記事と、本県の教員採用試験の志願者が初めて1000人を割った-と伝える記事が同じ日の紙面にあった▲「でも」でも「しか」でもいいから教員を志してくれないか…関係者の悲痛な声が聞こえる気がする。(智)

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