「おまえにシンカー投げるなんて10年早いわ」投手の自己顕示欲をくすぐる打者とは・山田久志さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(39)

1985年5月の日本ハム戦に登板した山田久志さん=西宮

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第39回は山田久志さん。1970年代の阪急(現オリックス)の黄金期を支え、芸術的と評された華麗なアンダースローから284勝を重ねました。プロ野球記録の12年連続開幕投手を務めるなどエースとして君臨したマウンドでは、ひそかな楽しみがあったそうです。(共同通信=中西利夫)

 ▽シンカーを見た打者は不思議そうな顔をしていた

 高校2年の夏の地方大会で、三塁手の私が一塁へ悪送球してサヨナラ負け。野球を続けよう、頑張ろうという気に全くなれなかったが、新チームでピッチャーをやれって言われた。同期の3年生が少なくてね。練習が厳しくて、どんどん辞めていくんですよ。残ったのは7、8人しかいなかった。最初はスリークオーター。もともと内野手だから、投げたいところから投げていた。サイドハンドに近い、ちょっと上ぐらい。フォームなんかめちゃくちゃですよ。
 社会人の富士鉄釜石で完全なアンダーハンドになった。監督さんがピッチャー出身で、今の投げ方じゃ駄目だから下からにしたらどうだと。下手投げは普通、体を倒して最初から潜っていくんですが、私の場合は一回伸び上がってから潜る。オーバーハンドの変形みたいなもの。今までアンダーって言われてきた人のとは、ちょっと違いましたね。手首の使い方が違うんですよ。アンダーハンドって球を離す時に手首が寝て、下からあおって投げる。私の場合は手首が立ったまま。だからオーバーハンドと一緒なんです。よく上からたたけって言うんですが、私のも横からバチンとたたくようなイメージ。サイドハンドの人はそうなんですよね。それをもっと低くしたような形です。150キロはないけれど、速いボールが投げられたんじゃないかと思います。下からあおる投げ方をしていたら、そこまでのスピードは出ない。

プロ2年目の山田久志さん。このシーズンから17年連続で2桁勝利を挙げた=1970年2月撮影

 その代わり、私にはアンダーハンドが絶対必要な沈む球が投げられない弱点があった。下からあおって手首を返せば沈むんですが、手首が立つからできない。真っすぐとカーブしかない珍しいアンダーだった。それじゃ通用しない、何とか落ちる球を習得しないといけないというので取り組んだのがシンカー。今で言うスプリットです。指を開いて投げる。おそらく誰もアンダーハンドでは投げてなかったと思います。
 フォークボールはうまくいかず、だんだん(人さし指と中指の間を)狭くしていった。フォークは抜くボール。どこへ行くか分からない。だったら(指を)どっかに引っかけないといけない。縫い目の外に引っかけて投げたらストンと落ちた。面白いように。試合で投げ始めた頃、バッターはびっくりというより、不思議そうな顔をしていた。独特の球種があると打たれるはずがないんですよ。その人が作り上げたボールはそんなに簡単には打たれない。他のピッチャーが投げてない球なんですから。下手からスプリットを投げるなんて考えにくいですよね。もうちょっと早い時期から投げておけば、もっと勝てた。でも、そんなのを早く覚えたら腕に負担がかかって長くは投げられないんですよね。7年目ぐらいまで真っすぐとカーブだけで通用していたから、負担がかからなかった。

1978年6月のロッテ戦で力投する山田久志さん。3年連続パ・リーグ最優秀選手に選ばれるシーズンとなった=川崎

 ▽監督も認めてくれていた暗黙の了解

 落合博満には参ったなと思ったのはね、シンカーはそんなに本塁打を打たれるボールじゃないんだけど、西宮球場のレフト場外に打たれた。シンカーをあれほど飛ばされた経験は、それ1本だけ。彼がロッテでがばがば打ってた時期に、シンカーが打たれた記憶はあまりない。ある時、突然に打たれ出すんだね。彼は私のシンカーを研究したと思う。彼がいろんな人に言っていたのは「山田さんのシンカーは、すくい上げたら絶対駄目。球を上からつぶすような感じで打つんだ」と。恐れ入りましたな。そういう打ち方ってあるのかな。だからゴルフですよね。上から押し込んで打っていく。そこを考え、打席でやれるのは落合しかいないね。タイミング一つ間違えれば全く駄目なんでしょうから。一時は全く打てなかったボールを事もなげに打つ。そして遠くへ飛ばせる。彼の技術からすれば、ヒットならしょうがないですよ。それをことごとく芯に当てて遠くへ飛ばせるようになるというのは、こっちからすると衝撃ですな。後にも先にも右打者でシンカーを打てるのは彼だけです。

山田久志さん(中央左)は1982年4月に200勝を達成。同年7月に200勝の江夏豊さん(同右)とともに名球会メンバーから励まされる=東京プリンスホテル

 私が200勝を達成した試合では3本塁打された。最後はカーブ。落合としゃべったことがあります。200勝がかかってて九回ツーアウト。あそこは三振してゲームセットで花を持たせた方が記事になるし、絵にもなる。何を考えてんだと。「山田さん、あれはね、ほんと打つ気がなかったんだ。ポッとバットが出たら、バットに乗っちゃったんだ」。打つ気がそんなになくても、うっかりバットを出したら西宮球場のライトのラッキーゾーンに運んでしまう。そこがすごい。最後の打者は落合か、ちょうどいいなと。それで追い込んで、内心「あっ、打たないな」という感じがあった。落合も打つ気がなかったというのは、うそではないと思うんだよね。
 門田博光さんとはね、2人だけの取り決めみたいなのがあった。暗黙の了解で「おまえ、シンカー投げないだろうな」というカドちゃんの待ち方。こっちも「シンカー投げないよ」と真っすぐとカーブになっている。20年近くやって一度も変わらなかった。こんな勝負は珍しいと思うけど、南海戦はカドちゃんと対戦するのが楽しかった。高めの真っすぐで空振り三振を取った時の快感というのは、勝ち負け以上のものがあったね。監督は当時の西本幸雄さんにしても、上田利治さんにしても、ある程度分かっていてね。度外視まではいかなくても、この2人ならと認めてくれてるところあったんじゃないか。
 ピッチャーの独特の自己顕示欲というか、自分の世界を自分でつくる感性みたいなものが出てしまう打者というのがいるんだよね。それは私は落合とのシンカー勝負だったり、カドちゃんとの真っすぐ勝負だったり。清原和博には「シンカーなんか投げてやるか。まだ10年早いわ」ってね。何だろうね、ある種のこだわりを持って投げてるって。そういう楽しさも感じないと、やっていけない商売なんだろうね。

「阪急」のラストゲームとなった1988年10月のロッテ戦で、山田久志さんは現役最後の284勝目を完投で挙げた=西宮

 ▽一喜一憂しないのが本当の勝負師

 一つだけ考えているのはプロ野球の高校野球化。私としてはちょっと残念。1本打ってガッツポーズしたり、いい守備してお客さんにアピールしたり。プロとして見せるんだから、ああいうのはやってほしくない。小さくパッとするのは格好いいけど。ヒットを打って塁上で万歳して、1イニング終わったら、みんながベンチから出てきてハイタッチ。少しプロとしてどうかなと思っている。

2001年11月、中日のヘッドコーチから新監督への昇格が決まり、記者会見する山田久志さん。翌年から2シーズン務めた=名古屋市中区栄

 本当の勝負師は、自分がいい仕事をした時は、もろ手を挙げて喜ばない。サヨナラ打でゲームを決めた時とか、試合が終わってマウンドにいた時は喜びを爆発させていいけど、ゲームがこれからどうなるか分からないのに途中でガッツポーズをして「やったぜ俺は」というのは勝負師じゃないですよ。最後に決まった瞬間に、よしと思って表現するのが勝負師。高校野球は1打席、1球が必死だから分かるけど。
 イチローは(2009年の)WBCの韓国戦で決勝打を打った時、何にもせず黙って塁上に立っていた。あんたら、そこで騒ぐなって感じで。ベンチは大騒ぎしてるけど、やつだけが一人違うところの世界にいるようで。やりたいけど、そこをがっと抑える。普段から意識してないと、やっぱり喜んでしまいますよね。そういう本当のプロが少なくなってきた。

インタビューに応じる山田久志さん=2023年4月撮影

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 山田 久志氏(やまだ・ひさし)秋田・能代高―富士鉄釜石からドラフト1位で1969年に阪急入団。下手投げからの速球、シンカーを武器に2年目から17年連続2桁勝利。76年から3年連続でパ・リーグ最優秀選手。名球会入り条件の200勝は82年4月に到達。通算284勝は歴代7位。2002、03年に中日監督を務めた。48年7月29日生まれの75歳。秋田県出身。

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