「令和2年の年賀状」団塊の世代の物語(4)

牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・自分というものを要約してみると、ほとんど存在してすらいなかったことに思い至って愕然とする。

・愉しむことのなかった世界がこの世にはたくさんあるのだろう。

・しかし、自分はこれでやっていくしかなかったろうし、それはそれでいい。

毎晩、漱石の『こころ』の朗読を聴きながら寝入ります。時にHemingwayの“A Moveable Feast”になることもあります。読書の灯を消した後のおまけの一刻、暗闇のなかでの愉しみです。

夕食後ひと眠りしてから起き上がり、一杯の紅茶を味わい、それから夜明け近くまで読書を書き物をして再び短い時間を眠る。そうした生活を改めました。少し早起きになってみると勤勉になった気がします。健康のためです。

でも、ふと人生を見失ってしまったような気がすることがあります。あの、真夜中の、独り切りの書斎での満ち足りた無限の時間。まあ、失ってみると、なんでも切なく懐かしくなるものなのでしょう。

そのうちに慣れます。考えてみれば、これまで何にでも慣れてきたのです。

さて、これから何に慣れるのか?

人生が、実は移動祝祭日の連続ではないことに、です。

少しでも世の中の役に立ち、自分の平穏な人生を噛みしめる。その合間、僅かの時間にも本を読み続けます。私は宇宙の果てに行き、ネアンデルタール人の滅亡の悲劇に立ち会い、経済の行方に思いを馳せます。そこには、すべてがあるのです。

「あの、真夜中の、独り切りの書斎での満ち足りた無限の時間。」

それを失っても「そのうちに慣れます」と考えていたとは、そう考えて済まし、澄ましこんでいたのだ。70歳とはそれほどに幼稚な年齢なのか。

私は、去年の9月の誕生日でどうやら還暦が来たなと感じ始めている。74歳で還暦とはなんとも奥手、ということになるのだろう。そういえば、私はなんでも奥手だった。

4年前、真夜中の書斎の時間が忽然と日常から消え去ってしまった事実。「そのうち慣れます」と書いてはいるが、実のとこと、それには未だ慣れてなぞいない。それどころか、反対に時間が無限でないことを思い知らされてばかりいる始末だ。76歳のときに『火の島』を出した石原慎太郎さんが言っている。

<書きたい長編小説の構想が七本もあるのに、人生の時間のストックが余りない。>(『我が師石原慎太郎』236頁)。

私もちかごろは、「宇宙の果て」も「ネアンデルタール人の滅亡の悲劇』も知ったことではない、もっと大切ななにかがあるのではないか、という気持ちになることがときおりある。

人生が有限だなどと考えたこともなかったのに、そう感じ始め、結局のところこんなていたらくなのだ。

と言いながらも、『日本の建築』I(隅研吾 岩波新書)は手ごたえがあって面白かった。そしてすぐに『統計学の極意』(デイヴィッド・シュピーゲルハルター 草思社)を読んでいるのだが。

確かに、今はそう感じ始めているのだ。

「人生は、実は移動祝祭日の連続ではない」。そりゃそうだ。当たり前だ。

そんなことを考えるということは、こちらに慣れ切ってしまっているのだろうか。

今年に入ってから、私はスマホに2つの英文朗読を入れて、暇さえあれば聴いている。

サマセット・モームの『要約すると』、“Summing Up” と、ヘミングウェイの『移動祝祭日』、“A Moveable Feast” である。英語の学習を兼ねているところが、なんとも我ながらいじらしい。散歩をしているときにも、眠っている私のベッドの横でも、いつもどちらかが声を上げ続けている。

すこし慌て始めているのである。このまま死んでしまっては、酔生夢死になってしまう。今の時点で自分というものを要約してみると、ほとんど存在してすらいなかったことに思い至って愕然とするのだ。

石原さんとの約束を守れなかったことについて、「いや、あなたは未だ生きているから」と励ますように言ってくれた編集者がいた。つい最近のことだ。そのとおり。そのときにはそう喜んだ。しかし、去年の9月が過ぎてみると、それも期限つきだったのだなと思わずにはいられない。条件ではない、期限だと法律家なら常識の範囲に属する。必ず来ることは条件ではない。期限なのだ。そして、そいつは必ずやって来る。

「死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。」と吉田兼好も言っていた。

芥川龍之介は、『侏儒の言葉』のなかでこう言っている。

「もし游泳を学ばないものに泳げとめいずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。(中略)我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?」

私の父はいつも言っていた。「年寄りの気持ちは年寄りにならないと分からない。」

未だ若かった私は聞き流していたと思う。なにそんなこと分かっているさ、というつもりだったのである。

人類発生いらい、何十億人の老人が嘆いてきた嘆きであろう。つまり、嘆いても伝わりはしないのだ。まだ生きていることを僥倖ととらえて、できることをするしかない。

最近、80歳を間近にした女性が「とにかく何とか80歳まで生きていたかったの。」

私はこう答えた。「それどころじゃないですよ。未だ20年は生きなくっちゃいけないんです。医学の進歩はそういうことを常識にしつつあるのですから。」

「僅かの時間にも本を読み続けます。」

そうかね。しかし、そいつは酒を飲み続けることや賭け事に熱中して人生を費やすのと同じで、趣味の問題に過ぎないのじゃないか、と思い始めている。本を読むことが、飲酒や賭け事にくらべて高級なことという思い込みがあったのだ。実はそうではないのだ、とやっと分かり始めた。

想像もしなかったことである。5歳までに私は自分なりの行動のルールを身に付けてしまい、以来すこしも変わらないで来た。

少年老いやすく学なりがたし、一瞬の光陰軽んずべからず。などという高い調子の朱熹の教訓に従ったのではない。幼いころから、人とはそのように生きるものだと世間によってこの心に植えつけられたのである。昭和24年、1949年生まれの人間、団塊の世代の人間は、人生とはそのように生きていくものだとしか社会に教えられなかったのだという気がする。

もっとも、高校から浪人時代にかけて友人だった男は、「わしゃあガンバルゆうのんが嫌いなんじゃ」と広島弁で口癖のように言っていた。高校生のころからタバコを吸っていたあの男は、60代の早いころに肺癌で死んでしまった。私に芥川龍之介の『黄雀風』という新潮文庫の本をくれたことがあった。芥川が死の3年前に出した本だ。

過去への後悔?過去が取り戻せないことへの怒り?

そんなものはない。

ただ、年月が経つにつれ知らないままに、縁のないままに、愉しむことのなかった世界がこの世にはたくさんあるのだろうと、漠然とした羨ましさを感ずることがないわけではないということである。

しかし、自分はこれでやっていくしかなかったろうし、それはそれでいいという諦めに似た思いはある。鷗外はそれを「レジグネーション」と呼んだ。それを覚悟と呼ぶと、すこし人情に反する気がして座り心地が悪い。

未だ、先にいろいろなことがあると愉しみにしているのだろう。

団塊の世代の物語(4)

英子はホテルオークラにあるヌーベル・エポックという名のフランス料理店を指定した。

エントランスに大木が近づくとなん人もの男女が深々と頭を下げてお辞儀をしてくる。どうやら大木は顔をおぼえられているようだった。

以前はベルエポックと呼ばれていた。未だその名だったころのこと、1998年、大木がフランスの大富豪を代理して日本の生命保険会社を買収したとき、その売り手側である生命保険協会の会長であった第一生命のトップが歓迎の夕食会をベルエポックで開いてくれたことがある。たくさんの人がいたが、そのなかで主賓のフランソワ・ピノーという名の依頼者が来ていた水色のワイシャツがなんとも素敵だった。

石原慎太郎さんに会うときにクレリックのワイシャツを着て行って、「そんなものはジャズマンとかバンドマンが着るものだよ」と酷評された直後のことだったから、その日の水色は一段と大木の目に染みた。以来、大木は水色のワイシャツ以外身につけない。

入り口から左に折れてなじみのウェイターの先導されるままに歩きながら、ふっと1年ほど前にフランス人の友人を招待したときのことを思いだす。あのとき、日本酒をという彼の注文におうじて矢渡という珍しい名の女性ソムリエが「十四代」の4合瓶を差しだした。小さな透明のグラスの酒をひとくち口にふくむなり、ジャンクロードは「あ、これは開けてから2週間以上経っているな。こりゃだめだよ」と英語で言った。

あわてて代わりのボトルをもってきてもらったのだった。ジャンクロードが口のなかで酒をころがす。先ほどと同じ動作だ。こんどは満足したように「トレ・ビヤン」と微笑んだ。大木も笑顔をつきあいの長いその女性ソムリエに向けた。ほっとした顔をしている。なんどかこうして世話をかけた記憶がある。

フランス人の友人、ジャンクロード・ダマバル氏とは、フランソア・ピノー氏が買った青葉生命の案件を機会に知り合い、とても仲良しになった。フランスのアクサ生命の国際部門のCEOだったということで、退職時に多額のストックオプションを手に入れて、現在は半ば道楽でコンサルタントをしているとのことだった。

ニューヨークのアラン・デュカスの店がオープンしたのででかけてみたがとても気に入ったと言ったことがある。興味にかられて、いったいいくらくらい払うものなのかとたずねたら、即座に、“I don’t care!”と言い返された。

とても相性が合って、公私ともにいろいろな機会にさまざまな話を弾ませた。彼の女性論もずいぶん聞かされたものだった。

大木は事務所でのミーティングの終わり、予想どおり、英子に夕食に誘われたのだ。ヌーベルエポックだと言う。瞬間、それならあの部屋なだとピンときた。

そのとおりだった。この店には個室は一つしかない。

もう一つ、とっておきのスペースがある。巨大なアメリカ大使公邸と霊南坂をはさんで向かいあっているガラス張りの素敵な半個室のことだ。天井にまでは達していないが、他の客室からは半透明の仕切扉で隔離されている。ランチタイムにはなんともとっておきのスペースになる。

明るい陽射しが差しこみ、周囲の都心ともおもえないふんだんな緑がいちだんと映える。もっとも、客の側は霊南坂を背にすることになるから、ありがたみは半分もないかもしれない。大木はそちら側に座ったことがない。大木はいつも、アメリカ大使館と大使公邸の間にある銀杏の大木を厚いガラス越しに目にしている。客は左手に下がっている敷地一杯にあふれた緑を目にすることになる。およそ日本でこれほどの贅沢な借景のフレンチ料理の店はありはしないだろう。超高層からの景色などは、もうとっくにごちそうではない時代になってしまっている。

といっても、ここは暗くなってしまってはその魅力が消えてしまう空間だ。

いちどたいせつな学者の方を招待したことがあった。ガラス越しの風景も魅力もごちそうの一つだと考えて敢えてその場所を選んだのだったが、部屋にはいるとすぐに失敗してしまったことに気づいた。そのときの招待客への申し訳なさの記憶がいまでも大木の大脳にこびりついている。そういう失敗をした自分を許せないのだ。

その空間は、幻冬舎の見城徹氏に石原さんについて書けと使嗾された場所でもあった。

見城氏は、大木が1年足らずで『我が師石原慎太郎』を書いたら、約束どおり出版してくれた。題名も彼がつけれくれた。大木はそれまでは『石原さんについての私的思いで』というタイトルで綴っていた。

尊敬する平川祐弘先生にお贈りしたらすぐに返事をくださり、「すらすらと綴った私語りで、ついに日本文壇史の中に名を連ねることとなりました。」とお褒めの言葉をたまわった。それだけで大木は有頂天だった。

そういえば、この本は英子にも署名入りで先ほどわたしたばかりだ。しかし、あの半個室のコーナーに行かなければ、英子はこの店が石原さんについての本に出てくるあそこだとは気がつかないだろう。いや、ひょっとしたらあの本をもう読んでくれていて、なにもかもわかっていてこのフレンチの店を指定したのかもしれなかった。

個室までの廊下の右側の壁一面を、ワインやシャンパンのボトルが整然と斜めに並んで底の部分を見せている。透明ガラスの陳列棚が店の格式を示している。壁面全体をおおっているといっていい。その奧にある個室の内開きの扉からなかに入るのだ。店に入ってから他の客のだれとも顔を会わせることなく、すっと密かに個室のなかにはいることができるしかけになっていた。一流ホテルではどこでもそうした仕掛けがあるものだ。このホテルの和食、山里もそうなっている。

彼女は、紙袋にいれて何冊かの本を渡したとき、石原さんについて書いた本を取り出して開き、見返しに署名がしてあることをみつけると、自分の名をあらためて覗き込むようにしてから微笑み、「署名してくださったね」と心から喜んでくれた。大木は、できるだけ本を贈呈するときには署名する。そのために、秘書が名刺にしたがってデジタル化された情報にもとづいて文字を大きくしたA4の紙に姓と名を印刷して正確を期してくれる。間違えると、たとえそれが「高」と「髙」の違いであっても、かならず気づいてくれる。そんなときには二冊目に署名することになる。誰にとっても自分の名前の漢字は大切なものだ。

昔、大木が検事をしていたとき、「原という字にはこうして何とおりもあるんですよ」と、立ち会い事務官という名の取調室での共同作業者が教えてくれたことがあった。原のまだれのすぐ下の「ノ」が真下に伸びている字、「ノ」のない字などなど。

だから、大木もいつも注意深く署名する。そのつもりなのだが、間違うことがある。秘書がチェックしてくれる。そういう習慣が確立されていた。

『我が師石原慎太郎』は見開きが濃い茶色の紙なので、署名には白いペンキを使わなければならない。岩 本 英 子 とゆっくり、こころをこめて署名しながら、ああ英子というのは白い色でかかれるにふさわしい漢字二文字の名前だなあ、とすこしセンチメンタルな気持ちになった。

「英子」は、『太陽の季節』の冒頭、初めも初め、一行目に出てくる名なのだ。

夕食の時間をくださいねとはあらかじめ言われてはいなかった。しかし、私はどういうわけでか、その日の夕方には他の会食の約束を入れることを避けていた。たぶん予期し、期待していたのだろう。そんなことなら、以前にも他のだれかとなんどもあったことだ。

同じオークラに泊っている。だからヌーベルエポックで、と言われた。それで7時を約束した。

大木はいつものハイヤーでオークラに向かいながら、若かったころのことを思いだしていた。

三井物産を東京地方裁判所に訴えたマレーシアの山林王の裁判で、大木は原告である山林王を代理していた。正確には、当時大木の所属していた法律事務所のパートナー弁護士の手伝いをしていたのだ。

毎月のようにスコットランド人のChartered Accountant、勅許会計士が東京にやって来た。シンガポールと香港に拠点を持っている、客家でマレーシアのサラワク州の山林王の顧問会計士だった。

「勅許会計士はCertified Public Accountant公認会計士なんかとは質もレベルも違うんだ。勅許会計士の方がずっと幅が広く、深い」というのが持論で、いつも「それに、スコットランドだっていうのが大事なんだ」と自慢していた。ダンディーというのが生まれ故郷だと教えてくれた。すぐに手もとのレッツの手帖を出して地図の頁を開いて、場所を確認してもらった。エディンバラのさらに北にある街だ。

その裁判の間、勅許会計士が東京にくると1週間は滞在して、大木と大量の資料を前にして朝から夕方まで議論をするのが習慣になっていた。もちろんランチもいっしょに摂る。建て替え前のパレスホテルのレストランに行くことが多かった。夕方になると、大木は他の仕事を急いで片づけて帝国ホテルに向かう。7時が当然の約束だった。

ホテルの有楽町側の出口から歩いて銀座へ出て、ビルの5階にあるハマという鉄板焼きステーキの店に行くのが事実上のルールになっていた。そこで2,3時間を過ごす。彼自身はステーキは50グラムしか食べない。店の料理人が気を利かして、オモチャのようなフライパンに脂身から絞りだした液体状態の牛脂をためて、その脂で小さなパンを揚げてくれるのが彼の愉しみなのだった。「ピティーさん、ピティーさん」と店の人たちに呼ばれて、いつも上機嫌だった。

若かった大木は、彼がくると週に6回、ワンパウンドのサーロインステーキを食べていた。検事のころ、ステーキが食べられたらどんなにいいだろうと憧れていたのが、簡単に、完璧に実現されたのだった。美味しかった。英語の会話が心地よかった。

夕食が終わると帝国ホテルに戻って、1階の広いラウンジ奧にあるピアノバーに並んで座って真夜中の12時まで話しこむのだ。そこで大木はモルトウィスキーの美味しさを初めて知ったものだ。グレンフィディックから始まって何種類のモルトウィスキーを知ったことか。

おもい返してみると、どうやら同性愛者だった彼にとっては、15歳は若い大木との時間は、別の意味でも愉しみだったのかもしれなかった。もちろん、なにごとも起きようもなく、大木にとっては何の関係もないことだったのだが。

英語の勉強には大いになった。毎月1回、1週間、朝から真夜中まで英語漬けなのだ。

そして、12時になると大木は帝国ホテルからタクシーで帰宅する。

翌朝は、朝8時半には事務所に出ていた。

一度、定宿の帝国ホテルの彼の部屋に二人で入ったことがあった。危ないかもしれないとおもわないではなかったが、なにもなかった。大木にその性向のないことは、ああした人間は本能的に感じ取るのかもしれない。

そういえば、他にもある日本の著名な企業のトップが大木を顧問弁護士としてとても大事にしてくれたことがあった。家族ぐるみで会社の別荘へゴルフに誘い、クラブを一セット買ってまで準備してくれた。まったくの初心者だった大木を連れてコースを回ってくれ、そのうえで一緒に風呂に入りそうになった。

大木はどうして自分が彼といっしょに風呂に入ろうとしなかったのかおぼえていない。さしたる理由もなかったかもしれない。普通のスーツ姿にソックスの異常なほど鮮烈なグリーンが印象的な紳士だった。

「ありがとうございます。お忙しいところを、私などのために申しわけありません。」

英子は大木が部屋にはいるなり席から立ち上がって、軽く頭を下げて挨拶してくれた。ここではドアを入るとすぐ右前に何客かのソファがあって、待ち合わせようの席になっているのだ。ウェイターの一人がまず客である大木ののために大木をドアの反対側の席に案内し、その間にもう一人のウェイターが英子をドア側の席に案内し椅子を引く。大木はこの部屋で初めてドアの反対側の席にすわると、つくづくと細長いテーブルを左はしから右はしまで眺めわたした。右がわにはガラスの置物がある。同じテーブルなのに見る位置が違うだけで別の部屋のようにみえる。

いつも大木がすわるドア側に英子がすわっていた。もういちど英子はテーブルに届くほど頭を下げて礼をくりかえした。

「いやあ、ここでこちらがわに座るの、僕、初めてだよ」

大木は、意識的にはなからくつろいだ声であいさつをかえした。

ウェイターは大木がアルコールを飲まないのを承知している。

「いつものビットブルガですね」

確認すると、英子は不思議そうな顔をした。

「もう飲まないんだ。この間もそうだったんだけど、気がつかなかったよね。」

「ううん、わかっていたわ。でも、今日はすこしお飲みになるのかなっておもって」

「どうぞ遠慮なく、なんでもご自分の好きなものをお飲みください。といっても、今日はあなたの奢りなんだけど」

「じゃ、私にはクリュグのグランキュヴェを少しだけ」

右後ろに控えているウェイターに英子が小声で話しかけた。

「クリュグ。なんとなくイメージだね。」

大木はビットブルガをあえてシャンパングラスに入れてもらって、英子と乾杯した。

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