【シンガポール】価値多様化、新政権対応に注目[政治] 「ポスト・リー」時代の幕開け(下)

「ウォン新政権の誕生はシンガポールの新時代の公式な幕開けだ」と話す久末氏(同氏提供)

シンガポールでローレンス・ウォン新首相が就任したことに伴い、リー・シェンロン元首相が上級相に就いた。初代首相のリー・クアンユー氏が上級相だった時代の「院政」的な状況とは異なり、力量が未知数の新首相に対する国民の不安を払拭する意味があるとみられる。新政権は今後、政治的・社会的な価値観が多様化する中でのかじ取りが注目される。日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所の副主任研究員、久末亮一氏は「ウォン新政権誕生はシンガポールの新時代の幕開けだ」との見方を示す。

——リー・シェンロン前首相は今後も上級相として内閣にとどまる。どのような立ち位置、役割が予想されるのか。

第2代首相だったゴー・チョクトン政権下での(建国の祖である)リー・クアンユー上級相の立場とは異なるものになるだろう。当時のリー・クアンユー氏の意図は、首相職を含めた実務執行者の世代交代は図りつつも、あくまでも実質的・最終的な最高権力は自身が保つという、いわば「院政」的なものだった。一方で、今回の新政権におけるリー氏の上級相としての立場は意味合いが異なるものと考える。

建国以前を含めれば過去60年以上にわたって存在してきた「リー」というカリスマが消え、力量が未知数の若く新しい首相に政権が受け継がれることに、国民の間では少なからぬ不安があるのは事実だ。新政権成立後のしばらくの間は国家と政権の安定性・持続性を象徴する意味合いで、リー氏に上級相として閣内にとどまってもらう意図があるのだろう。

——次期総選挙はいつごろになるのか。

新政権の発足から間もない時期は、政権運営に安全運転が必要な徐行期間になるため、次期総選挙の実施はできる限り先延ばしすることが意識される。今年後半から2025年の現行国会の任期終了までに、選挙民の感情に影響を与えやすい景気、消費者物価、不動産価格の動向を見極めつつ、また野党勢力への対策と反応を加味しながらタイミングを見計らって実施するとみている。

——野党の存在感が増す中、これまで野党への締め付けが強かった与党・人民行動党(PAP)が野党との距離感を変えていく可能性は。

新政権への国民からの信認を演出するため、次期総選挙では一定の成果を出す必要があり、短期的には野党勢力の伸長を抑制するため、従来型の締め付けや「ネガティブキャンペーン」などを用いる可能性がある。しかし、国民の政治意識の成熟化も進んでいる中、野党への対策が露骨過ぎればかえって新政権への国民の失望を招くことにもつながるため、当面は「敵失」を誘う戦略になるかと思う。

一方で長期的には、国民の意見や価値観の多様化に伴い、社会の自由化や野党の伸長は避けがたく、政権・人民行動党側はこれを受け入れていく必要がある。こうした中で人民行動党は、あくまでもなすべき使命を粛々と果たすことで国民からの強い信認を維持し、野党に対する絶対優位を保ちつづけることが正道と考える。

——ウォン氏の動きで注目すべき点は。

新政権の下でも、人民行動党の一党優位という統治体制の基本的な枠組みに劇的な変化が起こることは考えにくい。一方で、政治的・社会的な価値観の多様化というあらがいがたい現実がある中、ウォン氏自身がこれまでのシンガポールの価値観に対し、変革の必要性を説き始めている点は注目すべきだ。例えば、政府と国民の関係性は従来のトップダウン式ではなく対話の中で見いだされるべきだということや、建国以来重視されてきた能力主義が国民や社会を制約しているということを指摘している点だ。

既にシンガポールは、リー・クアンユー氏が作り上げてきた建国以来のシステムだけでなく、根本的な価値観の転換に向けて始動しつつある。リー・シェンロン氏が国政における「リー家」というカリスマに幕を引いたことも合わせると、二重の意味で「ポスト・リー」の次元に入ったとも言える。ウォン新政権の誕生とは、まさにシンガポールの新時代の公式な幕開けなのだ。(メールインタビュー:聞き手=清水美雪)

<プロフィル>

久末亮一(ひさすえ・りょういち)

ジェトロ・アジア経済研究所開発研究センターの企業・産業グループ副主任研究員。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。香港大学客員研究員、東京大学や政策研究大学院大学の助手を経て現職。専門は近現代アジア経済史や、シンガポール、香港の比較都市史。研究所内では現代シンガポールの政治、経済、社会、外交に関する観察も担当。著書に「転換期のシンガポール」(アジア経済研究所、2021年)、「アジア動向年報2023」(アジア経済研究所、2023年)の「シンガポール」章など。

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