【インタビュー】サガン鳥栖MF長沼洋一「WBが嫌だった」から始まった武者修行…川井健太監督との出会い、苦節8年目での二桁ゴール

昨季プロ8年目でキャリアハイの10ゴールを挙げたサガン鳥栖のMF長沼洋一。

2022年7月に加入した鳥栖ではデビュー戦から先発に抜擢され、いきなりJ1初ゴールを挙げる幸先の良いスタートを切って以降、定位置を確保。昨季のブレイクに至ったが、鳥栖へ加入する以前はJ1で十分な出場機会を得られず、ゴールやアシストを1つも記録することができなかった。

3年半に渡る“レンタル生活”も経験した27歳の万能アタッカーに話を訊いた。(取材・文/新垣 博之、取材日:2024年4月21日)

サガン鳥栖での活躍を支える恩師の存在

――昨季はクラブにとって7年ぶりとなる二桁ゴールを奪いました。オフには他クラブから獲得のオファーもあったと思いますが、鳥栖に残留した理由は?

「鳥栖に、そして、監督である(川井)健太さんに良い形でオファーをもらって、2022年の夏に来させてもらって以降、ずっと試合に出し続けてもらっています。

個人的には良い結果も出せているので、鳥栖には本当に感謝しているんです。これでこのタイミングで鳥栖を離れるのは絶対に違うと思いましたし、今年もそんな鳥栖のチカラになりたい!鳥栖のためにプレーしたいと考えて残留しました」

※昨季第33節の柏レイソル戦でシーズン10点目を挙げた長沼洋一(写真提供:サガン鳥栖)

昨季は主に[4-2-3-1]の右ウイングを担った長沼は意外にもヘディングで4得点。これはリーグで4番目に多い数字でFW以外の選手では最多を記録。

1トップに本職ではない小野裕二(アルビレックス新潟)が定着し、ゲームメイクも担う“偽9番”の彼が中盤に引き、空いたゴール前のスペースに長沼が飛び込む場面も多かった。

「僕のプレーで言うと、2022年はサイドに張ってプレーすることが多かったと思いますけど、去年は中央に入って得点に絡んでいくシーンが多く、それがゴールを量産できた要因の1つかもしれません。去年はサイドに張る場面は少なかったと思いますが、今年は2022年に近いかもしれませんね。」

――長沼選手は“本物の両利き”ですか?右利きながら右サイドでボールを受けると相手DFから遠い左足でキープしたり、ドリブルやパスにも左足を使いますよね?シュートだけ左足を使う右利きの選手は多いですが、両足を的確に使っている印象があります。

「確かに両足だけでなく、右サイドも左サイドもどちらのサイドでも得意・不得意になるプレーもないですし、そこそこ両足で蹴れるほうだとは自覚しています。

ヘディングのゴールが多いのは偶然です。僕がヘディングで取って来たことなんてありませんし、イメージないと思うんですけどね。それにもっと足で決めたいぐらいです(笑)」

長沼はこれまでJリーグ通算169試合(今季J1第14節終了現在)に出場して来たが、その約77%を占める131試合で彼を起用してきたのが、現在の鳥栖を率いる川井健太監督だ。

筆者は2017年に女子サッカーから取材活動をスタートしたが、当時なでしこリーグ2部の愛媛FCレディースを率いていたのが、川井監督だった。

攻撃時と守備時でフォーメーションを変える可変システムを完成度高く運用していた愛媛Lは、国内2部のクラブながらFW上野真実(サンフレッチェ広島レジーナ)とFW大矢歩(バニーズ群馬FCホワイトスター)の2人がなでしこジャパンに招集されるなど、チームを率いる川井監督は戦術家の一面と共に選手育成の面でも確かな手腕を発揮していた。

「愛媛の時から信頼して使い続けていただいているので感謝していますし、『2点取られても3点取れ』と考える攻撃的なサッカーを志向する健太さんが指揮するチームでプレーしたいと考えていました。

そうは言っても、愛媛の時から個人的に話をすることはあまりないんですけどね。僕は去年の今頃、2度も退場処分になったんですが、その時も特にお咎めはありませんでした。微妙な判定だったので仕方なかったんですけどね。

ここ最近はロッカールームで熱いゲキが飛んでいるのがクラブ公式YouTubeを通して伝わっていますが、珍しいことだと思います」

「プロサッカー選手になるために」広島へ“越境”

山梨県甲府市出身の長沼は8歳からサッカーを始め、当時はバルセロナで一世を風靡したブラジル代表のファンタジスタ=ロナウジーニョに憧れた。

中学時代は地元・甲府市の強豪Uスポーツクラブで活躍。高校からは広島へ単身で“越境”。Jユース最強を誇る名門サンフレッチェ広島ユースに加入した。

「多くのクラブからユース選手としてのオファーをいただき、最終的には2クラブに絞ったうえで練習参加もしました。

練習参加自体は1週間ほどでしたが、広島のスタイルや先輩方とプレーした時のサッカー的な感触がとても良く、プロサッカー選手になるための環境面もすごく良かったので広島に決めました。

実家から離れることは特に意識せずに決めましたね。親にも相談はしていましたが、僕の意見を尊重してくれました」

――ただ、長沼選手が加入するタイミングで広島ユースの礎を作ってきた森山佳郎監督(現ベガルタ仙台監督)が退任されました。

「ゴリさん(森山監督)が広島ユースに根付かせた『気持ちには引力がある』という合言葉が有名であるように、育成年代のスペシャリストであるゴリさんの存在は僕が山梨でプレーしていたクラブの指導者の方々からも、とても良い評判を聞いていました。

広島の練習に参加した時はゴリさんが監督だったのに、加入を決めたあとに退任されることを聞いたので、その時はさすがに『えっ?』って、なりました。でも、広島には『プロサッカー選手になるために』という強い覚悟をもって行くことを決めていたので、大きな影響はありませんでした」

――当時の広島ユースには2つ上の先輩に MF川辺駿選手(スタンダール/ベルギー)、1つ上にはDF荒木隼人選手、同期にはFW加藤陸次樹選手、2つ下の後輩にはGK大迫敬介選手やMF川村拓夢選手、満田誠選手など、現在の日本代表に招集される選手もいました。

名前を挙げた選手だけでもプロの世界でのキャリア形成には様々な形がありますね。

「僕もそうですけど、選手それぞれに分岐点がありますからね。広島の育成が凄いのは、プロの世界で活躍する選手が同世代だけでもこんなにも多くいることです。ユースからトップチームへ昇格できなくても、ここ数年は大学経由(荒木・加藤・満田)で戻ってくる選手も多くなっていますし、他のクラブ(川辺・川村・加藤)に行って活躍する選手もいます。

今こうして振り返ってみても、選手個々の質も高かったと思います」

――広島ユースは所謂「ミシャ式」(※)と呼ばれる可変システムを採用していました。攻撃時は[4-3-3]、守備時は[5-4-1]へと変化するため、シャドーなら攻撃時にトップ下やインサイドハーフ、守備時はサイドハーフなど、少なくとも2つ以上のポジションを役割として求められます。

※「ミシャ式」:ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(コンサドーレ札幌監督)が広島を率いていた2008年頃に完成し始めた戦術。監督の愛称から名付けられた。

「ユースの時はFWやボランチでもプレーしていましたが、主にシャドーでのプレーが多かったですね。

ユースもトップチームが採用しているシステムでプレーしていましたし、トップと同じトレーニングをしたり、トップに呼ばれてトレーニングもしていましたから、そこで鍛えられたなと思います。それがいろんなポジションでプレーできている現在にも繋がっているように思います」

――ところで、3年生の時には2つ下のGK大迫選手とMF川村選手がすでに1年生で主力としてプレーしていました。体格的にも大柄な彼らは先輩の言うことをちゃんと聞いてくれたんですか?(笑)

「当時の僕は副キャプテンとしてゲームキャプテンもしていましたが、高校1年生から見た3年生って怖い存在というか。彼らは素直に聞いてくれていましたけど、怖かったんじゃないですか?でも、僕よりムツ(加藤選手)のほうが雰囲気的に絶対に怖かったはずですよ(笑)」

2016年からトップチームに昇格した長沼だったが、当時の広島は現日本代表の指揮官・森保一監督が率いて4年で3度のJ1制覇を果たした黄金期の真っ只中。

特にシャドーのポジションではユースの大先輩である森崎浩司(現広島アンバサダー)や野津田岳人、優勝の立役者である柴崎晃誠(現広島育成部コーチ)のようなMFだけでなく、2016年のJ1得点王に輝くピーター・ウタカ(現ヴァンフォーレ甲府)や現日本代表の浅野拓磨(現ボーフム/ドイツ)のようなFWも競争相手となる。

「広島にはプロになるために行きましたし、1年の頃からトップの練習やキャンプにも参加できていたので、順調に行けば昇格できると考えていました。だからこそ、自分の場合は大学進学も全く考えていませんでしたし、プロだけを見ていました。

もちろん、その頃のトップチームがJ1で優勝する姿も間近で見ていました。実際にトップ昇格が決まった時も『やってやるぞ』と覚悟も決まっていましたね」

――ただ、トップ昇格後の1年半は一度もリーグ戦での出番がありませんでした。気になったのは長沼選手が練習でもウイングバック(WB)に固定されていたことでした。自ら志願したのですか?

「自分では一度も言ったことはありません。正直、やりたくなかったですよ。特に1年目は練習から、『やりたくないのに、なんでこのポジションなの?』と思ってやっていました。

だからこそ、ポジションの件も込みで2年目の夏にレンタル移籍を志願しました。若かったですね(笑)」

「WBが嫌だった」から始まった武者修行、ピッチ内外で得た経験

※長沼洋一選手の年度別リーグ戦出場記録(筆者作成)

出場機会を掴めないだけでなく、日々の練習から自分の納得できるポジションでアピールもできない現実に直面した長沼は2017年8月、J2のモンテディオ山形へ育成型期限付き移籍を決断。

翌年にも、確固たる自身の哲学をもつ大木武監督(ロアッソ熊本監督)が率いる当時J2のFC岐阜へレンタル移籍。決して多くの出場機会は得られなかったが、掴んだものは大きかったようだ。

「プロ2年目の夏に、『本来の自分が得意である前線のポジションで勝負したい』と代理人を通して希望を出し、山形へ半年間行くことになりました。

その山形では3試合に途中出場しただけだったんですけど、練習から凄く充実した日々を過ごすことができました。練習試合も含めてFWやトップ下、ウイングでプレーするなかで、『全然やれる!』と手応えを掴めた時間だったんです。

それから、その年の終わりに東京五輪世代の代表チーム(U-21,22日本代表)が立ち上がり、僕もその最初のメンバーに招集されました。ポイチさん(森保監督)が東京五輪代表チームの監督に就任することも決まっていたので、『WBなら東京五輪に出られる可能性もあるな』と考え直しました。

次の年に岐阜へ行った時には自分で大木さん(大木監督)に『サイドバック(SB)でプレーさせてください』と言いましたし、覚悟を決めました。

実は山梨では大木さんの息子さんと同じクラブでプレーしていたこともあり、大木さんは僕が中学時代にFWやトップ下でプレーしていた頃のプレースタイルを知っていました。これはあとで知ったことなのですが、どうやら大木さんは僕を前のポジションで考えていたようなんです」

2019年からの2年間はJ2の愛媛FCへレンタル移籍。現在の鳥栖を率いる川井監督の下では広島ユース出身の後輩MF川村も同じく武者修行先として共にプレーした。また、鳥栖で同僚となるDF山崎浩介やGK岡本昌弘、MF森谷賢太郎との出会いもあった。

「愛媛にはDF森脇良太さん(愛媛)やMF高萩洋次郎さん(アルビレックス新潟シンガポール)を始め、広島ユース出身の選手が活躍し、広島に戻ってからも活躍するケースが多く、他クラブからでもFW斎藤学選手(アスルクラロ沼津)を筆頭に愛媛でブレイクして大きく羽搏いていく選手が多いイメージがありました。

そして、当時の愛媛では世代別の日本代表で一緒だった同学年のMF神谷優太(江原FC/韓国)が前年から10番を着て活躍していて、東京五輪出場も狙う彼と共にプレーしたいと考えて加入しました。

ただ、レンタル移籍も3回目。危機感も通り越して、実質はラストチャンスだと思って愛媛に向かいました」

「今後の目標は日本代表」

愛媛での2年間でリーグ72試合に出場して2ゴール8アシストを記録した長沼は2021年、3年半に渡った武者修行から古巣・広島に復帰。しかし、当時の広島は監督交代が短期間で2度起きる過渡期。J1経験のない長沼には十分なチャンスが与えられなかった。

2021年6月には当時の広島の本拠地・エディオンスタジアム広島で開催された天皇杯2回戦で関西リーグ1部・おこしやす京都AC(※現在は関西2部)相手に先発出場するも慣れない3バックの左DFを担当して1-5の大敗を喫するなど、少ないチャンスも生かせなかった。

「日本が2022年のカタールW杯でドイツやスペインを下したように、天皇杯でもジャイアントキリングは何度も起きています。あの試合は負け方も良くなかったので、そのあとも悔しかったですけど、そこまで引き摺りはしなかったです」

――ただその後、鳥栖へ移籍するまでの約1年間は出場機会が少ない時間が続きました。

「確かにメンバー外になることも多かったんですが、『出ればやれる』とは思っていましたし、『今はそういう時期だ』と捉えて、試合に出られない時期だからこそ、やれることをやろうと考えて準備をしていました。

そう思えるのも、世代別の代表や移籍を経験したことで、いろんな選手を見て来たことにもあります。やっぱり、日本代表へ入るような選手やプロの世界で長くプレーする選手はメンタルの部分が優れていて、ピッチを離れても意識が高く、いかに準備することが大切なのかを見てきました。

メンタル面や身体のケア、肉体改造にまつわる様々なトレーニングを取り入れたり、自分のプレーや相手チームの分析なども準備のひとつだと思いますね。

そういう時間があったからこその現在でもあると思っているので、腐ったり、心が折れるようなことは全くありませんでした。だからこそ、2022年の夏に完全移籍で鳥栖へやってきた時にも、すぐに試合に出て結果を残すことができたと考えています」

――それでは最後に今年の目標を教えてください。

「チームとしてはもっともっと良いサッカーができるように、自分自身もチームの勝利に貢献できるように、と考えることで今は頭がいっぱいですね。今はまず、鳥栖のためになることを精一杯やっていきたいと考えています。

個人としては去年10点取れたので、今年も二桁は取りたいと考えています。結果を出し続けることで日本代表に入るチャンスもまだあると考えています。

鳥栖からは2022年にFW岩崎悠人くん(現・アビスパ福岡)も招集されました。国内組限定の編成時でも良いので、まずは日本代表に入ることを目指してやっていきたいと思います」

サガン鳥栖は「ここから這い上がれる」

※サガン鳥栖公式YouTubeより(動画3分5秒から)

今季から背番号を24から88に変更した理由を、「元々8番が好きだったんですが、サポーターからの人気が高い本田風智選手(今季から10番)が着けたすぐあとに着けたくなかったので、8を並べて88にしました」と答えるなど、明るいキャラクターをもつ長沼。

筆者が昨季挙げた10ゴールのうち先制点が8つあったことを伝え、「契約更新の際に金額を上げる材料に使ってください。100万円くらいは上がるかも」と冗談を飛ばすと、広報スタッフを見ながら、「もっと行くでしょう!先制点は大事ですからね!もっともっと~!!(広報さん:苦笑い)」と返して来るようなコミュニケーション力に長けた人間性も魅力だ。

今季の鳥栖は開幕から低迷してきたが、ここへ来て川井監督体制初の連勝。毎年のようにチーム人件費がJ1最少クラスのチームには長沼のようにJ2でも出番に恵まれなかったり、J3経験しかないような挫折を経て這い上がって来た選手が多い。

5月15日、Jリーグは31歳の誕生日を迎えた。32年目のシーズンを迎えた今季、鹿島アントラーズと横浜F・マリノスが未だに1度も降格を経験していないことは有名だが、「オリジナル10」以外の後発のクラブでJ1に昇格して以降、1度も降格を経験していないクラブが1つだけある。2012年からJ1を舞台にして戦うサガン鳥栖だ。

やりくり上手でW杯出場選手も!サガン鳥栖、「歴史上最強の日本人選手」5名

サガン鳥栖はここから這い上がる!

サポーターの夢を乗せて、明るく元気な長沼がどこまでも走り続ける!

【プロフィール】

長沼 洋一(ながぬま よういち)

1997年4月14日生まれ(27歳)
178cm/70kg
山梨県甲府市出身
ポジション:GK以外全てを経験

高校から名門サンフレッチェ広島ユースに“越境”。2016年にトップ昇格したものの、4年で3度のJ1制覇を果たした黄金期の広島では出場機会を掴めず。2017年8月からはモンテディオ山形(J2)、2018年にはFC岐阜(J2)、2019年からの2年間は愛媛FC(J2)へと期限付き移籍。約3年半に渡る武者修行を経た2021年に広島へ復帰するも出番は少なく、2022年7月にサガン鳥栖(J1)へ完全移籍した。2023年には10ゴールを挙げてブレイク。今季もウイングやSBを両サイド遜色なくこなし、公式戦全試合に出場中。両足から繰り出すミドルシュートや意外性のあるヘディング、抜群のスピードで攻守におけるデュエルでの強さも武器とし、ポジションもプレースタイルもオールラウンドな魅力が際立っている。

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