「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#42

太平洋戦争末期、米軍機搭乗員3人が処刑された石垣島事件。BC級戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた46人の日本兵のうち、1審で死刑が宣告されたのは41人。そのうちの一人、炭床静男兵曹長の息子たちに会いに鹿児島市を訪れた。持参したのは、炭床静男の公判記録。父は石垣島事件にどのように関わったのか。父が証言台で話したことを息子たちは初めて知ったー。

◆口数少なく厳しかった父

取材に応じてくださった炭床静男の次男、健二さんと三男の浩さん。2021年2月の取材当時、73歳と63歳だった。静男は妻ミチエとの間に5人のこどもに恵まれた。健二さんによると家庭での父は、「まあ、やかましい厳しい人でした。口数は少なかったですけどね。よう怒られましたよ」ということだった。浩さんも「寡黙っていうか厳しい、手が先にぼこっと出るような感じ」で、「飲んだらちょっとは陽気になるかなっていうくらいで、それ以外は最小限のことしかしゃべりませんでしたからね」と語った。

炭床静男の軍歴には、「昭和32年(1957年)9月14日仮釈放」と記されているが、健二さんの記憶では小学校2、3年のころ帰ってきたということなので、正式な日付よりも前倒しで家にいたようだ。父からは、乗っていた戦艦のことなど戦争の話も聞いたけれども、戦犯に関わることは聞かなかった。

◆一切教えてくれなかった

健二さんは、周りの人たちから、「戦争犯罪人ということで死刑になり、巣鴨に入っていた」ということを教えてもらったという。また、「死刑判決は受けたけど、三番目か四番目のところで助かって帰ってこれたんだよ」っていうことも聞いて、直接父に尋ねてみたが、教えてくれなかった。

次男・健二さん「一切教えてくれませんでした。でも死刑(の判決)になったんですから、大きなことなんだと思っていました。でも、その当時はどういう理由で死刑になったのかっていうのはわからなかったです」

炭床静男は、一審と再審で死刑、再々審で重労働40年に減刑されているので、三番目のところで助かったということになるのだろう。健二さんは、「こういったことは、こどもには話さないですよね、私も言わないです」と父の心情を理解していた。

◆証言台で父が述べたこと

健二さんと浩さんに見ていただくために用意したのは、裁判資料だ。スガモプリズンに収監される前に福岡でとられた調書や検事調書など、国立公文書館などで入手し、炭床静男のものだと判明したものをすべて用意した。この中で、最終的に静男が自分が知り得る真実を述べていると思えるのは、1948年2月12日の被告人質問を記録したものだったので、それを見ていただくことにした。次男の健二さんは元警察官で、公判記録をお渡しすると淡々と音読してくださった。

<炭床静男被告人質問 1948年2月12日>外交史料館所蔵
炭床静男証人台に立つ
弁護人より弁護側第五十二号証(炭床静男口述書)を提出朗読した後、検事の反対尋問に対し答える

◆燈火を調べさせたら、穴を掘っていた

(炭床)事件当時は兵曹長で甲板士官の外に任務はなかった。甲板士官は榎本中尉と自分と二人であった。直属士官は井上副長であった。処刑の夜、処刑場から500メートル離れた所で自分は火葬をしていた。処刑場の方から音は聞こえぬが燈火が見えた。処刑開始後、人を派遣して確かめさせはしなかったが、火葬中に午後8時頃、作業員の一人をやって燈火を調べさせたら、処刑の為、穴を掘っていると言って来た。その後一人で処刑場に行った。それは午後9時過ぎに防空壕に居たら、伝令から、処刑があるから現場に皆行くようにと言われたから、誰の命令か聞かなかった。副長の命令とは聞かなかった。

◆誰の命令によるものか

(炭床)○○に皆を連れて行けと言い、自分は火葬場を見廻って一人で行った。現場に着くと一人の飛行士が柱に縛られているのを見た。他の二人が既に処刑されていた事は後で分かった。自分は、好奇心はあったが、命令がなければ現場には行かなかっただろう。仕事の事では井上副長と榎本中尉の命令で動き、その他の事は当直将校の命で動いた。誰かの命か確かめなかった。その必要を認めなかった。刑場に行ってから、誰にも届けない。伝令の伝えて来るのは命令だから直に応じた。

◆戦死者の火葬 誰かは知らぬ

(炭床)自分が火葬していたのは、その日戦死していた二名で、部隊も本人の氏名も知らぬ。どうして死んだかも知らぬ。私が死体の受け取った時は箱の中に入っていたので負傷していたか否か分からぬ。夜、火葬すると戦死者と同じ隊の者が翌朝骨を拾いに来る。火葬前に普通儀式はある。戦友のことだから可愛そうだと思ったが、相手が誰か分からぬので、相手に対し特別の感情は特になかった。戦時中の事だからやむを得ないと思った。命のやり取りをしている戦場の事だから相手方に対し、別にどうと思わなかった。

◆命のやり取りをしている戦場

石垣島事件で検事側は、特に命令がない中で、集まった日本兵たちは「共同謀議」で3人の米軍機搭乗員を殺害したというストーリーに持っていこうとしていた。しかし、実際は、石垣島警備隊の秩序は保たれ、命令通りに動いていたと、何人もの被告が米軍にとられた調書の内容を後から翻している。法廷では弁護側が「命令があった」旨の新しい口述書などを証拠提出しているので、検事側の反対尋問では、「命令」について詳しく聞いている。また、検事側は石垣島警備隊で死者が出ている状況から、復讐心で処刑したというあらすじを描こうとしているが、炭床静男は処刑の直前に名前も知らぬ戦死者二人の火葬をし、「命のやり取りをしている戦場の事」だから、亡くなった人に対しても、攻撃をした敵軍に対しても、特別の感情は無かったと述べて、それを否定している。

◆処刑は戦闘行為の一つ

<炭床静男被告人質問 1948年2月12日> (炭床)当夜、処刑は戦闘行為の一つだろうと思っていた。その飛行士達が、私が火葬していた兵を殺したか否か分からなかった。何故その飛行士が処刑されたのか、理由は知らなかった。その理由を誰からも聞いた憶えはない。戦死した戦友の復讐と云うような事は聞かぬ。その飛行士に対し憎しみは持たなかった。自分の持っていた物差しは長さ1メートル、握りの径20センチ、先端の径13センチ、10ミリごとに目盛りがしてあった。木質は杉か桧だったと思う。軽さは普通。それで飛行士の身長は計らなかった。見当でその飛行士の身長は五尺七、八寸(172~5センチ)あったと思う。靴を履いていたか否か分からぬ。自分の身長は靴を履いて計ったことはないが、裸足で五尺二寸(158センチ)位。記憶は今より福岡の方がよかったと思う。

この連載の主人公、28歳で命を立たれた藤中松雄は、連行される際に家族に「すぐ帰るから大丈夫」と言っていた。炭床静男と同じく、「処刑は戦闘行為の一つ」だと思っていたのかもしれない。まさか戦後、戦争犯罪に問われるとは思っていなかった。静男の次男、健二さんは父の公判記録を音読し続けたー。
(エピソード43に続く)

*本エピソードは第42話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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