はるな愛さん「体と心の性の不一致、それが自分の個性だと気づいたときに人生が変わりました」【山あり谷あり私の人生】

マルチなタレントとして、また数々の飲食店を経営する実業家として大活躍のはるな愛さん。いつも笑顔の印象があるはるなさんにも、これまでの人生、数え切れないほどのアップダウンがありました。10代の頃「死にたい」と思ったほどの苦しみをどう乗り越えたのか、今改めてその思いを伺いました。

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お話を伺ったのは
タレント、歌手 はるな愛さん

はるな・あい●1972年大阪府生まれ。
アイドル松浦亜弥のコンサート音源を口パクで完全コピーする「エアあやや」の芸で大ブレイク。
テレビ・ラジオ出演、CD・写真集リリースなどマルチに活動するかたわら、飲食店を複数経営する実業家としても活躍。
被災者支援や子ども食堂の主催など社会事業にも力を注ぐ。
出雲観光大使、韓国観光名誉広報大使も務める。

未来を思い描けなかった幼少期。「誰が私を必要としてくれるのか」

心は女性でありながら男性としてこの世に生をうけたはるな愛さん。性の不一致が最大の悩みであり、コンプレックス。自分の中で一番認めたくないその事実に、物心ついた頃から苦しんできた。思春期を迎える頃には、未来を思い描くことができなくなっていたという。

「何のために生まれてきたのか、誰が私を必要としてくれるのか、子どもの頃から心の中でその問いかけばかりしていました。心のままに自分らしく生きるのか、それとも親を安心させるため自分を押し殺して生きるのか、その二択に悩みましたね」

さらに中学生になると、壮絶ないじめに遭うようになり、はるなさんを「生きる」か「死ぬ」かにまで追い詰めた。実際にギリギリのところまで行ったこともある。悩み続けていた頃、知人から「賢ちゃん(はるなさんの本名は大西賢示)と同じような人がいるから行こう」と誘われたのが、大阪にあるニューハーフのショーパブだった。

「ニューハーフっていうと、男の人だというイメージがすごく強かったので、女の子になりたいと思っている私とは違うと思ったんです。でもまずは行ってみようと思って」

大阪で過ごした幼少期

1972年、大阪府に生まれたはるなさん。子どもの頃から「女の子になりたい」と思っていたものの、両親には自分の気持ちをずっと隠したまま過ごしていた。

壮絶ないじめに苦しんだ中学時代

中学時代はつらいいじめに遭っていた。「生きるか死ぬか」、ギリギリの精神状態にまで追い込まれていた時期も。

性別適合手術さえ受ければ悩みは消えると信じていた

訪ねてみると、そのきらびやかなステージにたちまち魅了されることに。「ああこれだ!」と思ったはるなさんは、そこで働くことに決めた。「やっと居場所を見つけた」と思えたら、不思議といじめられることも減っていった。何かが自分の中に芽生えたような気持ちになった。

「でも一方で、ますます自分の満たされないところが見えてきたんです。『男性に生まれたこと』、それが一番の悩みであることが、一層はっきりしてしまいました。そこで19歳のとき、性別適合手術を受けることに。手術を受けて女性になれば、すべての悩みがなくなると思ったんです。実際、手術後は夢のようで、『世界がこんなに彩り豊かに見えるんや』とすごくうれしかったですね」

しかし、夢のような時間は長くは続かず、迷いは再び深くなった。

「私はずっと、性別のことさえ解消すれば、すべてが楽になると思っていました。でも本当の原因は、これまで正直に人と関わってこなかった自分の生き方にあると気づいたんです。人間関係、お金、生活の問題、すべて性別のせいにしてきましたが、そうではなかった。悩みや不安の原因は、親にも友達にも本当のことを言えなかった自分にある。私がちゃんと正直に人と関わってこなかったせいだと改めて思い知らされました。じゃあ私の中の絶対にぶれない部分、本当に望んでいるものは何かと考えたら、芸能界に入りたい、タレントになりたいという思いだったんです。特に歌が好きで、アイドルになりたい、歌手になりたいという思いが小さい頃からあった。その気持ちとまっすぐに向き合わないと駄目だと思いました」

ニューハーフとしてショーパブで活躍

小さい頃から歌が大好き。ショーパブの華やかなステージに立ち始めると、「愛ちゃん」とかわいがられるように。芸能人という夢に近づくための、大切な時間だった。

「しゃあないやん」が生んだ 運命を変えた苦肉の策

1990年代半ば、ニューハーフがブームのようになったこともあり、上岡龍太郎さん司会の人気番組などに呼ばれるようになる。露出が増え、芸能人になれた気がした一方、扱われ方はあくまでも「キワモノ」。ブームの終焉とともに、テレビ出演も減っていった。

そんなときタレントの飯島愛さんに声をかけられ、98年に上京を決意。「女の子として」やり直すには、過去を知る人がほとんどいない東京でリスタートする、このチャンスしかないと思ってのことだった。しかし、なかなか「女の子」としては扱われず、鳴かず飛ばずの毎日だった。

それでも食べていかなければならない。そこでチャレンジしたのが、飲食店経営だった。資金40万円で世田谷・三軒茶屋の物件を居抜きで借り、7人入れば満席という、小さなバーをオープン。しかし、これもすぐにはうまくいかなかった。

「女の子が経営していて面白いな、楽しいなという時間を過ごせる場所にしたかったんですけど、三軒茶屋にはかわいくて楽しい女の子がいるお店なんて山ほどある。私一人でやっている薄暗いお店の扉なんて、誰も開けてくれなかったんです」

お客さんは来ない、売り上げは上がらない、だが家賃は払わねばならない。どんどん追い詰められていく状況で、『何かしないと!』の思いに駆られたはるなさんは、大阪時代を振り返った。みんなが「愛ちゃん、愛ちゃん」と言ってお店に足を運んでくれたのも、テレビに何度も呼んでもらえたのも、私がニューハーフだったからだ。自分の中で一番認めたくないことではあったものの、それは紛れもない事実だった。

「『しゃあないやん』という諦めと切羽詰まった思いから、もう一度、ニューハーフのはるな愛としてお店に立とうと思ったんです。それが三軒茶屋では珍しいお店だと評判を呼び、いろいろな人が遊びに来てくれるように。満席のときは『近くで時間つぶしているから空いたら電話ちょうだい』と言う人も出るほどで、毎日売り上げを数えるのが楽しくて。当時まだ世に出ていなかった森三中や椿鬼奴ちゃんとかもよく来てくれて、皆で夢を語り合いました」

自慢の声を失ってたどり着いた「エアあやや」でブレイク

しかし、人生は本当に山あり谷あり。やっと順調に運び始めたところで、再び大きな壁にぶつかる。

「ある日起きたら、声が出なくなっていたんです。病院に行ったら、慢性のポリープができているので半年はしゃべったらいけないと。仕方なくお店も筆談でやっていたら、だんだん客足が遠のいてびっくりするぐらい売り上げが減ってしまいました。私は歌が大好きで、それまでは声が自分の宝物。それが全く出なくなったことで、人生で一番のどん底を味わいました。希望はなくなるし、生活も苦しくなるし、このときも『何とかしないと!』と追い詰められていきました」

それでも挫けなかった。追い詰められた中でふと思いついた苦肉の策。それが「エアあやや」だった。

「お店ではいつも私の大好きな松田聖子さんや、あややこと松浦亜弥さんのコンサートビデオを流していたんですけど、それを全部覚えていたんです。声が出ないから音源に合わせて口パクでものまねをしてみたら、お客さんがすごく喜んでくれて。それを見に、またお客さんがどんどん来てくれるようになったんです」

これが後にはるなさんをブレイクさせ、一躍スターダムに押し上げることになった「エアあやや」の原点。ブレイクのきっかけとなったのは、藤原紀香さんに声をかけられ、あるパーティでその芸を披露したことだった。約6分間の熱演は座を大いに盛り上げ、その場に居合わせたテレビ制作会社の人の目に留まった。そこからは、あれよあれよという間。後に人気となる、当時始まったばかりのバラエティ番組「あらびき団」への出演が決まったのだ。上京から約10年、2007年のことだった。

どんなに追い詰められても逃げない、諦めないはるなさんの覚悟としなやかさ、そして何より、人の縁を大事にしてきた日々の積み重ねが実った。

「言うよねぇ」というはるなさん独特の言い回しも接客の中から生まれた。常連客の中にいつも会社の愚痴ばかり言う男性がいた。小さな店内では一人の暗い雰囲気がたちまち周りを巻き込む。見かねたはるなさんがある日こう言ったのだ。「言うよねぇ~、止まらないよねぇ~」

「そうしたら、その人も他のお客さんも笑ってくれたんです。きっとそれが嫌な注意のされ方じゃなかったからだと思うんですよね」

今につながる芸はこんな「人とのつながり」から生まれたのだ。

「エアあやや」で大ブレイク! 夢を叶える

ブレイク直後は依頼が殺到し、新幹線やタクシーでの移動中も取材に対応した。睡眠時間が3日で1時間ということも。

時間はかかったけれど居場所を見つけられた

ブレイクしたのと同時期に、はるなさんはもう一つ大きな挑戦をしていた。それは世界一美しいトランスウーマンを決めるコンテスト「ミスインターナショナル クイーン」へのエントリーだった。「あらびき団」の収録を終えたはるなさんは、タイに飛び世界大会に臨んだ。

「父にカミングアウトしたとき、『やるんやったらその道で絶対に一番を取れ』と言われたこともあって挑戦しました。でも周りの美しさに圧倒されて、自分の個性が全く出せず結果は4位。事務所には『1位を取るからしばらく帰れないよ』と豪語してきたので、落ち込みながら結果報告の電話をかけたら、『とにかくすぐに帰ってこい!』と。何事かと思ったら、『あらびき団』の放送後、仕事の依頼が殺到しているというんです」

そこからは睡眠時間も満足に取れないぐらい「タレント」としての忙しい日々が始まった。夢見ていた大ブレイクだった。着替える時間もなく、衣装のまま移動していると、みんなが「愛ちゃん、愛ちゃん」と声をかけてくれた。

「ある日新幹線で移動していてトンネルに入ったとき、窓に映った自分の顔を見ていたら突然泣けてきたんです。『みんなが愛ちゃんと呼んでくれるのは、あの大西賢示なの?』って(笑)。衣装のまま涙を流して、『あのとき死なないでよかったね、時間がかかったけど居場所を見つけられてよかったね』と、自分に語りかけました」

生きてさえいれば、思いもよらぬ出会いと幸せが待っている

今振り返れば、一番認めたくない、最大のコンプレックスだったことが、実は自身の一番の「個性」だった。さまざまな葛藤を乗り越えて、自分らしく無理なく嘘をつかずに生きてきたから、「芸能人になりたい」と言ったときに、そのフィールドへ連れていってくれる人に出会えたと感じている。

「私がもし普通の女の子だったらこうして皆さんのもとにたどり着けていたかどうか、自信はないですね。皮肉なもので、一番つらかったことが、今、一番大切な宝物になっている。そう思うと、生きるしかないんだなと思います。生きていたらその先には思いもよらぬ出会いと、そのまた先に待っている幸せがある。それは身をもって痛感しています」

はるなさんは現在、タレント活動や飲食店経営の他に、被災地支援に積極的に出向いたり、子ども食堂を開いたり、弱い立場の人たちに対する支援も地道に行っている。

「私はつらい幼少期を過ごしましたが、今芸能界で仕事をさせてもらえています。皆さんのおかげで人に寄り添って考える『ポケット』に、少し空間ができたと思うんです。だから今度は私ができることをする。だって、お互いさまですから。つらい思いをしている人の苦しみを代わってあげることはできないけれど、黙って横にいることはできる。やはり人を動かすのは人の力。私が受けたものをお返ししていければうれしいですね」

※この記事は「ゆうゆう」2024年6月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。

取材・文/志賀佳織

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