36歳の若さで亡くなったボブ・マーリーの音楽キャリアを改めて振り返る

Photographer: Adrian Boot - Live at the Rainbow Theatre, Exodus Tour, London, England 4 June 1977

レゲエ・アーティストの名前を一人挙げよと言われれば、ほとんどの人はボブ・マーリー(Bob Marley)の名を挙げるだろう。彼はジャマイカという国と、彼自身が有名にしたレゲエという音楽の両方にとっての象徴的存在なのだ。

そんな彼は、一聴してシンプルでありながら、奥深さと普遍的なテーマを持つ楽曲を書くことに長けていた。その才能により彼は、偉大なレゲエ・ミュージシャンになるとともに、音楽史に残る真のスーパースターにもなったのである。

現在、ボブ・マーリーは史上屈指の影響力を誇るレゲエ・アーティストと認められているだけでなく、国際的なスーパースター、そしてジャマイカ固有の文化を象徴する存在ともみなされており、2024年公開映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』の世界的ヒットを受け、その評価は一層高くなっている。

そんな彼のキャリアを新ためて紹介しよう。 

白人と黒人の間に生まれたボブ・マーリー

ボブ・マーリー、本名ロバート・ネスタ・マーリーは1945年2月6日、ジャマイカのセント・アン教区にある田舎の集落で、中年の白人男性だった父と当時10代だった黒人女性の母のあいだに生まれた。その彼がミュージシャンとしてのキャリアを歩むために家を出たのは14歳のときのことだ。

キングストンに出てきた彼は、地元のシンガーであり敬虔なラスタファリアンでもあったジョー・ヒッグスの門下に入った。そして1962年、彼はレスリー・コングの下で1stシングルの「Judge Not」を制作。”ロバート・マーリー&ビヴァリーズ・オールスターズ”名義で発表されたこのシングルは、軽快なスカ・ナンバーだった。

ザ・ウェイラーズの誕生

しかし有名プロデューサーだったレスリー・コングとは、ほどなくして金銭トラブルにより関係を断つこととなった。翌1963年、マーリーはシンガー仲間のピーター・トッシュ、バニー・リヴィングストン(バニー・ウェイラー)、ジュニア・ブレイスウェイト、ビヴァリー・ケルソ、チェリー・スミスとともに、ティーンエイジャーズというヴォーカル・グループを結成。このグループはその後、”ウェイリング・ルードボーイズ”などを経て、シンプルな”ザ・ウェイラーズ”へと改名した。

やがてプロデューサーのコクソン・ドッドが経営する伝説的レーベル、スタジオ・ワンと契約した彼らは、グループとして最初のシングル「I’m Still Waiting」を録音。程なくしてブレイスウェイトとスミスがザ・ウェイラーズを脱退すると、ボブがリード・ヴォーカルを取るようになった。そして、1964年の前半に発表した次のシングル「Simmer Down」は、ジャマイカ国内のチャートで首位を獲得。

これに続いてザ・ウェイラーズの面々は、「Let Him Go (Rude Boy Get Gail) 」「Dancing Shoes」「Jerk In Time」「Who Feels It Knows It」「What Am I To Do」などを含む一連のシングルを制作。そうして彼らは1966年の解散までに、ドッドの下で70曲ほどのトラックを録音した。

リタとの結婚とザ・ウェイラーズの再結成

同年の2月10日にマーリーは、ソウレッツというグループのシンガーだったリタ・アンダーソンと結婚。彼女はのちに、三人組のヴォーカル・グループ、アイ・スリーズの一員として成功を収めることとなる。しかしマーリーはリタと籍を入れたあと、この年の大半をアメリカはデラウェア州ニューアークにある工場で働いて過ごしている。というのも同地には、1963年から彼の母が暮らしていたのだ。

同年10月にジャマイカへ帰国した彼は、バニー・ウェイラーとピーター・トッシュに声をかけてザ・ウェイラーズを再結成。短命に終わった自主レーベルのウェイルン・ソウルムから、シングル「Bend Down Low」をリリースした。なおこのころ、三人のメンバーは全員がラスタファリ運動の教えに深く傾倒し始めていた。そしてこの教えは彼が亡くなるまで、マーリーの生き方と音楽の根幹を成すこととなる。

ザ・ウェイラーズの面々は1968年から、ダニー・シムズのプロデュースで多数の新曲の制作をスタート。他方で翌年からはプロデューサーのリー・”スクラッチ”・ペリーとも手を組んで、数々の名曲を録音している。「My Cup」「Duppy Conqueror」「Soul Almighty」「Small Axe」といった楽曲はいずれも、彼らがペリーのハウス・バンドであるアップセッターズとともにレコーディングしたもの。パワフルなヴォーカル、独創的なリズム、発想力豊かなサウンドを特徴とするそれらの楽曲群は、それ以降のジャマイカ音楽の基礎を形作った。

さらに、アップセッターズのベーシストだったアストン・”ファミリー・マン”・バレットと、その弟でドラマーのカールトンは、正式メンバーとしてザ・ウェイラーズに加わることになった。そうして彼らは1971年に、新たな独立レーベルのタフ・ゴングを設立。同レーベルからいくつかのシングルをリリースしたあと、翌年にはアイランド・レコードとの契約を果たした。

UKのレーベルとの契約

そんな彼らに飛躍のチャンスが訪れたのは1972年のこと。そのきっかけとなったのは、ソウル・シンガーのジョニー・ナッシュの前座として参加した英国ツアーだった。ツアー中に滞在したロンドンで彼らは、アイランド・レコードのトップだったクリス・ブラックウェルと知り合う。そして彼らは、ブラックウェルからレコード契約の話を持ちかけられたのだ。

ザ・ウェイラーズにとってアイランドとの契約後初のアルバムとなった1973年作『Catch A Fire』は、彼らのアルバムとして初めてジャマイカ国外でもリリースされ、発表当初から世界中で絶賛された。

また、次作『Burnin’』からは、エリック・クラプトンによるカヴァー・ヴァージョンでさらに有名になった「I Shot The Sheriff」や、「Get Up, Stand Up」などの楽曲が生まれた。

二人の脱退と新たな加入

そうしてザ・ウェイラーズはスターへの階段を着実に上がっていたが、その矢先にバニー・ウェイラーとピーター・トッシュがソロとしてのキャリアを歩むため脱退。マーリーはそれを受けて、バックにアイ・スリーズを迎えることにした。そのメンバーは、妻のリタ・マーリーに、マーシャ・グリフィスとジュディ・モワットという二人のシンガーを加えた顔ぶれだった。

こうして新たな構成となった彼らはワールド・ツアーを敢行し、続いてブレイク作となった1975年のアルバム『Natty Dread』を発表した。史上最高のレゲエ・アルバムに挙げる人も少なくない同作には、名曲「No Woman, No Cry」が収録。この曲のライヴ・ヴァージョンは、彼らの楽曲として初めて全英チャートのトップ40入りを果たした。

さらにマーリーは、ロンドンのライシアム・シアターで行われた公演で、様々な人種から成る満員の観客を前に演奏。このステージは同年のうちに名ライヴ盤『Live!』に纏められている。

そして、続く1976年作『Rastaman Vibration』は、全米チャートでトップ10に入るなど大きな成功を収めた。このころから、彼の音楽がポップ界のメインストリームで独自の地位を確立したことは明白になっていったのである。

大きくなる存在による光と影、そして死

こうしてジャマイカ国外でもボブ・マーリーの名声は大きく高まっていたが、彼は母国でほとんど神秘的な存在とみなされるようになっていた。国中の人たちは詩人、そして予言者として、彼の発する一言一句に注目していたのである。だが、その影響力を脅威と捉える者たちもいた。そのせいで1976年12月3日には、暗殺未遂により彼が負傷する事件も発生。その辛い経験により、彼は一年以上に亘ってジャマイカ国外で過ごすことを余儀無くされた。

それでもマーリーは1977年、キャリア最大のヒット作である『Exodus』を発表。同作からは「Jamming」「Waiting In Vain」「One Love/People Get Ready」などのヒット曲が生まれた。また、「Is This Love」や「Satisfy My Soul」など素晴らしい楽曲群を収めた次作『Kaya』も大きな成功を収めた。

そのあともボブは、『Live!』に続く優れたライヴ・アルバム『Babylon by Bus』や、1979年作『Survival』をリリースしたが、翌1980年はマーリーのキャリアでもっとも重要な一年になった。この年には、新たな独立国家となったジンバブエでのコンサートや、アメリカ・ツアーの発表があったのだ。

しかし彼はそんな中で、ニューヨークのセントラル・パークでのジョギング中に倒れてしまい、検査の結果、がんが脳、肺、肝臓にまで広がっていることが判明した。そして、同年発表の『Uprising』が、マーリーの存命中にリリースされた最後のアルバムとなった。1981年5月11日、彼は36歳でこの世を去ったのである。その10日後にはキングストンで国葬が催され、彼はギターとともに礼拝堂に埋葬された。

死後も生き続ける魂

しかしその後も、1983年発表の『Confrontation』、大ヒットを記録した1984年のコンピレーション『Legend』、2012年に公開されたドキュメンタリー映画『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』、そして2024年には伝記映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』が世界中で大ヒットするなど、彼の音楽は新たな世代へと受け継がれ、彼への評価は死後も高まり続けている。亡くなって数十年が経ったいまも、彼はレゲエの世界的な人気を象徴する存在であり続けているのだ。

また、リタ・マーリーは夫を失ったあとに、ソロとしてヒット曲「One Draw」を発表。その後も「Many Are Called」や「Play Play」といったシングルで立て続けに成功を収めたが、彼女は80年代の中ごろになると子育てに専念するため第一線を退いている。

さらに、ジギー・マーリーの名で知られる長男のデヴィッドは、姉のシャロンとセデラ、弟のステファンとともに結成したグループ、メロディー・メイカーズのリーダーとしてポピュラー音楽界で大きな成功を収めた。彼らが1988年に発表したシングル「Tomorrow People」は全米チャートでトップ40に入るヒットを記録。これは、父のボブすらも成し遂げられなかった偉業である。そして、同じくボブの子どもであるダミアン、ジュリアン、キマニの三人も、それぞれに音楽活動を行っている。

愛は一つ、心も一つ。そして、ボブ・マーリーは唯一無二のレジェンドなのである。

Written By uDiscover Team

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