【日本三大財閥】三菱・三井・もうひとつは?成り立ちや歴史とゆかりの地

日本三大財閥に挙げられるのは、三菱財閥・三井財閥・住友財閥です。誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。海外の財閥としては、ロックフェラー財閥やモルガン財閥などが有名です。しかし、そもそも財閥とはどのような組織なのでしょうか? 今回は、日本三大財閥それぞれの歴史や成り立ちのほか、財閥についてわかりやすく解説します。

旧住友家の本邸の庭園「慶沢園」の門

そもそも財閥とは?

財閥は、特定の一族が支配するコンツェルン型の独立資本のことを指します。コンツェルンとは、異種産業間にまたがる独立企業の結合体です。つまり異なる業種の複数の企業が資本的に結合し、実質的にひとつのグループとなることです。

もっとわかりやすくいうと、財界に勢力のある大資本家、大企業家の一族一門のことです。

「財閥」という言葉が使われるようになったのは、明治中期の甲州財閥がはじまりとされています。甲州出身の事業家たちが結託して経済界に勢力を広げたのです。

土佐藩出身の岩崎弥太郎が起業家として腕を磨き築いた「三菱財閥」

東京・丸の内の三菱商事ビル ©️Asoraneko / Shutterstock.com

「三菱財閥」は、1870年に土佐藩出身の岩崎弥太郎によって築き上げられた財閥です。岩崎弥太郎が政府御用の海運業を興し、その後、銀行・造船・倉庫・鉱山・貿易などあらゆる分野に進出。1893年設立の三菱合資会社を中心としてコンツェルンが形成されました。

岩崎弥太郎は日本が近代へと向かう時代を代表する起業家のひとりなのです。

財閥を築いた人は、さぞかし恵まれた裕福な家庭に生まれ育ったのだろう、と思うかもしれませんが、岩崎弥太郎は元郷士の貧しい家に生まれたそうです。そのため、世の中に認められるためには学問に注力するしかないと思い、叔母の嫁ぎ先である土佐一の儒学者、岡本寧浦(ねいほ)に師事し、懸命に学んだといいます。

そして、英才を認められ、江戸の儒官である安積艮斎(あさかごんさい)の私塾で学び、1859年から藩職に就きます。その後、藩の開成館貨殖局に勤務し、2度の長崎出張で各国の商館と取引を行い、起業家としての腕を磨いていきました。

明治維新後の1870年、開成館大阪商会は藩から分離。九十九(つくも)商会という海運業を行う私商社になり、岩崎弥太郎はその指揮者になりました。

1873年には、三菱商会へ改名。岩崎弥太郎の個人企業になり、政界と結んで、内乱を鎮圧するために、新政府の軍需輸送を独占しました。そこから、海運業を主体とした三菱財閥の基盤を築き上げていったのです。

三菱財閥は岩崎弥太郎以後、4代にわたり続きましたが、第二次世界大戦後に解体されました。現在は三菱財閥の流れを汲む三菱グループになっています。

伊勢松坂の豪商が東京・日本橋に呉服屋を創業した「三井財閥」

福岡の三井ショッピングパーク ららぽーと福岡 ©️cowardlion / Shutterstock.com

「三井財閥」は江戸時代以降、三井家によって形成された財閥です。三井家は江戸初期の豪商、伊勢松坂の三井高利(たかとし)を開祖としています。

1673年、三井高利が江戸日本橋本町一丁目に、呉服店「越後屋八郎右衛門(えちごやはちろうえもん)」を創業したことが、三井財閥のはじまりです。

1683年には、江戸に開いた両替商をもとに、日本最大の富商になりました。そして、明治維新には、「三井の大番頭」であった三野村利左衛門(みのむらりざえもん)の進言により朝廷に献金を行い、新政府からの優遇を受けて、政商としての基礎を固めました。

なお、1876年に日本初の民間銀行「三井銀行」をつくったのは、三野村利左衛門です。

明治初期には、三井銀行や三井物産といった銀行、商業が中心でしたが、明治中期以降は、鉱工業にも進出し、金融・軽工業・商業・鉱山といった多岐にわたる事業を展開。

第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけては、新企業の設立のほか、ほかの企業の吸収合併により、日本最大の財閥に発展しました。

その後、GHQの改革「財閥解体」によって本社は消滅しましたが、現在に至るまで傘下の企業との分離と合併を繰り返しながら企業グループを形成しています。

三井財閥が当時どれだけの財力を持っていたのかわかるのが、東京都港区三田にある「綱町三井倶楽部」です。日本初ともいわれる本格的な迎賓館で、現在も使用されています。

戦後には昭和天皇をはじめ、歴代の総理大臣、外国の賓客といった方々が訪れたそうです。

ルネサンス様式の豪奢な外観が目を引く本館は、煉瓦石混造スレート葺き地階付き2階建てになっており、館内はサロン・舞踏室など23室からなります。

庭の中央にはルネサンス様式の大盃型噴水があるほか、築山林泉回遊式の日本庭園も広がっています。筆者は、この建物を初めて目にしたとき、一瞬、時が止まったかと思いました。それだけ見事な建造物なのです。

大阪を本拠地として素材産業を中心に発展「住友財閥」

旧住友家の本邸の庭園「慶沢園」

「住友財閥」は、大阪を本拠とした素材産業を中心に発展した財閥です。17世紀に住友政友(まさとも)が京都に書物と薬の店を開いたことがはじまりです。

政友は商人の正直・慎重・確実な心得を説いた『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』を残し、それが今も「住友の事業精神」の基礎になっています。

同じ頃に、京都で銅吹き(銅精錬)と銅細工業を営んでいた政友の姉婿、蘇我理右衛門(そがりえもん)が粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を開発。

理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以 (とももち) と共に、大阪に進出し、日本の銅精錬業の中心になりました。

そして、銅貿易をもとに、糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商に発展。1691年には別子銅山を開き、日本最大の銅鉱業経営体になりました。

続いて、林業、石炭、建設、機械、化学、電線、金属工業などにも次々と進出したほか、江戸時代から続く両替業は、別子銅山の収益をもとに銀行、倉庫、保険、信託といった金融業に発展し、住友は鉱工業・金融業の二大部門を中心とした財閥に!

戦後は、ほかの財閥と同様に解体されましたが、のちに銀行・化学・金属を中心に住友グループとして復活を遂げ、現在は強い結束力と発展力を持つ巨大な企業集団になっています。

[参考]

近代日本人の肖像|国立国会図書館

三菱グループ

三井広報委員会

住友商事

住友グループ広報委員会

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