「学歴詐称」以上の問題がある イスラム圏の教育事情について その1

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑がまたもや取り沙汰されている。

・重要な論点のひとつは、日本の学歴社会の問題。

・彼女がもし都知事として申し分のない実績を残していたなら、この疑惑が取り沙汰される事態は考えにくかったのでは。

小池百合子・現東京都知事の学歴詐称疑惑が、またもや取り沙汰されている。

もともとニュースキャスターであった彼女が、1992年の参議院選挙に日本新党から立候補した当時から、

カイロ大学を首席で卒業した

という彼女自身の触れ込みはどうも怪しい、と見る向きは少なからずあった。

2020年には、当のカイロ大学が、

「1976年に(同学の)文学部社会学科を卒業している」

との公式声明を発表しているが、今年になって、彼女の側近(都民ファーストの会・事務総長)だった人物が、この声明文について、実は自分が提案したものであった、と証言し『文藝春秋』が大きく取り上げる、という経緯があったわけだ。

すでに幾度も報じられていることなので、くだんの声明や記事について、ここでは深掘りしない。ただ、ネットの一部から聞かれる、マスメディアがこの問題を大々的に扱おうとしないのは、なんらかの圧力(もしくは忖度)のせいではないか、といった声については、それは少し違うと申し上げたい。

理由は、割と単純なことなのだが、小池都知事の側は、大学の公式声明文という「物証」を示しているし、過去には卒業証書や卒業証明書の写真も公開している。これに対して、元側近という人は、

「本当はカイロ大学を卒業していない」

と確信し得るような証拠を、なにひとつ示せていないのである。物的証拠がないのに有罪認定できるはずがない。

それならば、なぜ……と新たな疑問を抱かれた読者も、少なからずおられるのではないだろうか。

卒業証書までちゃんとあるのに、どうして「学歴詐称疑惑」が繰り返し取り沙汰されるのか、と。

こちらも実は、割と簡単な理由で、彼女のアラビア語について、

「到底カイロ大学を卒業できるレベルではない」

と断ずる人が多いからである。

1990年8月、サダム・フセイン麾下のイラク軍が、隣国クウェートに侵攻し、国土の大半を占領。世に言う湾岸危機が始まった。

この際に、多くの外国人がイラク軍によって拘束され、戦略上の重要拠点に「人間の盾」として配されたことをご記憶ではないだろうか。

もう少し具体的に述べると、在クウェート日本大使館では、イラク軍が国境を突破したとの報に接するや、同国の在留邦人261人を施設内に退避させた。

しかしその後、大使館はイラク軍に包囲され、245人が強制的にバグダッドに移動させられ、うち215人は前述の「人間の盾」とされたのである。

当然ながら日本政府は人質解放に向けて動いた。

まずは、時の海部俊樹首相が、中曽根康弘元首相を特使としてイラクに派遣する決断を下し、そのための予備交渉を行うべく、佐藤文生・元郵政相がバグダッドを訪れた。

この時、通訳として同行したのが他ならぬ小池百合子・現東京都知事で、当時の肩書きは「ニュースキャスター・アラビア語通訳」というものであった。

ところが、佐藤氏らの一行がバグダッドに到着してから24時間も経たないうちに、大使館にSOSが入ったという。相手(イラク高官)のアラビア語がまったく分からない、と。

通訳がまともにできなかった原因について、彼女自身は、

「イラク訛りがよく聞き取れなかった」

などと語っていたそうだが、カイロ大学を出た人ならば、標準アラビア語が完璧に近いはずで、仮にも外交交渉の場で、そんな相手に方言でまくし立てる人がいるのか、という話である。このエピソードは、2020年に刊行されて話題を呼んだ『女帝 小池百合子』という本(石井妙子・著)でも少し触れられているが、私も関係者から話を聞いている。

具体的な経緯や外交官たちのリアクションについても、もっと詳しく聞きたかったのだが、これはどうやら、ないものねだりであった。

「30年後に彼女が東京都知事になって、林さんがそういう記事を書く、と予測できていれば、もっとちゃんと記録を取っておいたのですけどね。そもそも日本から来た通訳が使い物にならなかったというのは、それほど珍しいことでもありませんから」

だそうである笑。

標準アラビア語とは耳慣れない、という読者もおられようが、要は出身地に関わらずコーランを正しく唱えることができるようにと、アラビア語の専門学徒やイスラム法学者たちが、長い時間をかけて発音や文法を統一したもので、イスラム圏では小学校レベルから授業で学ぶ。

カイロ大学に話を戻すと、英国保護領であった1908年に、宗教教育委機関(=イスラム神学校)とは一線を画す、世俗的教育機関の総合大学として設立された。ただ、医学部や考古学部の歴史はもっとずっと古く、1908年というのは、現在の形態になった年、といったほどの意味であるらしい。

卒業するには、普通は4年。

実はエジプトの学制は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年と、日本とまったく同じ「6・3・3・4制」なのである。

このことは次回あらためて取り上げるが、ここにも小池都知事の「学歴詐称疑惑」の萌芽が見られる、ということは報告しておこう。

どういうことかと言うと、彼女自身が著書の中で、カイロ大学では1年留年した、と述べている。そもそも4人に1人は留年する、と言われるほどカリキュラムが厳しいと聞くが、その通りなら彼女は卒業まで最短でも5年はかかったはずで、1972年入学76年卒業、という触れ込みとはつじつまが合わない。

他にも色々な指摘がなされているのだが、以上を要するに、彼女の学歴詐称疑惑については「限りなく黒に近いグレー」だと見る他はなさそうだ。

そうではあるのだけれど、もっと重要な論点があるのではないか、と私は考える。

ひとつは、日本の学歴社会の問題。

日本人女性として初めてカイロ大学を、それも主席で卒業したと聞くと、政治家としての資質を問われる前に「すごい人」なのだと思われてしまいがちだ。

逆もまた真なりで、彼女がもし、政治家・都知事として申し分のない実績を残していたならば、

「選挙が近づくたびに学歴詐称疑惑が取り沙汰される」

などと揶揄されるような事態は、そもそも考えにくかったのではないだろうか。

次回は、エジプトの教育制度や最近の動向について見てみる。

【取材協力】

若林啓史(わかばやし・ひろふみ)。早稲田大学地域・地域間研究機構招聘研究員。京都大学博士(地域研究)。

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業・外務省入省。

アラビア語を研修し、本省及び中東各国の日本大使館で勤務。2016年~2021年、東北大学教授・同客員教授。2023年より現職。

著書に『中東近現代史』(知泉書館2021)、『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会)など。『世界民族問題辞典』(平凡社)『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)の項目も執筆。

朝日カルチャーセンター新宿教室(オンライン配信もあり)で7~12月、博士の講座があります。講座名『紛争が紛争を生む中東』全6回。5/17より受付中。詳細および料金等は、同センターまでお問い合わせください。

トップ写真:衆院補選東京15区の候補者の応援に入った小池百合子都知事(2024年4月13日東京都江東区豊洲)ⒸJapan In-depth編集部

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