新沼謙治さんと“なべ焼き”の思い出「都会のうどん屋で『鍋焼き』頼んだら違う料理が出てきて…」【私のおふくろメシ】

新沼謙治さん(提供写真)

【私のおふくろメシ】

歌手デビュー50周年を来年に控えたベテラン歌手、新沼謙治さん(68)のおふくろメシは、うす焼きともいわれるなべ焼き。岩手県ならではの小麦粉料理と多才な母親のエピソードを語る。

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うす焼きともいわれますけど、うちの実家ではなべ焼きと呼んでいたんです。昔はホットプレートみたいな鉄板はなくて、鍋で焼いていましたからね。

小麦粉を水で溶いてクレープみたいに薄く焼いた簡単なもの。家庭によっては卵や牛乳などを混ぜますが、母親のなべ焼きは砂糖だけ入れて甘くしたお菓子みたいなものでした。白い砂糖でも黒砂糖でもおいしいですよ。母親はちょっと厚くして、油を薄くひいた鍋で両面を焼く。厚みや形はピザみたいですかね。それを三角に切って食べさせてくれましたから、食べ方もピザと似てますね。

夕飯のご飯が残ったら、それも混ぜて作ってくれたこともあります。これだと、ご飯粒もお菓子のようにカリカリしておいしいんですよ。

僕は昭和30年代前半の生まれ。当時は食べ物がそんなになかったですし、うちは大家族でしたから小麦粉料理のなべ焼きはよく作ってました。

小麦粉といえば、醤油だんごもよく食べました。小麦粉を水で溶いたら丸く握っておだんごにして醤油と砂糖で味つけ、あとはとろみをつける。串には刺さないでお椀に入れて出してくれるんです。

岩手県には「とってなげ」という似たメニューもあります。「捕っては投げる」に由来した料理名。わかりやすくいうと形は「すいとん」なんです。

醤油だんごと同じく醤油と砂糖を混ぜたタレをつけ、すいとんのような形にしてお椀で食べる。固まってない醤油だんごみたいかな。食べ物が豊富ではなかった時代に、母親は家にある素材で工夫して作っていたんですよね。小麦粉料理はお馴染みでした。

中学時代、家のある大船渡から都会の盛岡に遊びに出かけた日のこと。盛岡に住む親戚のおじさんとうどん屋さんに入ったら「鍋焼き」とだけ書いてあった。

僕は「盛岡にもなべ焼き、あるんだ!」とうれしくなり注文したら、鍋焼きうどんが出てきて「そりゃそうだよな」と(笑)。小麦粉を焼いただけのなべ焼きがうどん屋にあるわけないですものね。

手先が器用でウナギのさばきから裁縫まで、何でもできた母親

母親は料理全般が上手でした。近所のスーパーに勤めて天ぷらを揚げていて、お客さんには「新沼さんの揚げた天ぷらをください」とおっしゃる方がいたほどで。

畑を借りていたので、おじいさんと一緒にタマネギやらいろんな野菜を育ててました。僕もたまに手伝わされてね。だから野菜天ぷらは家でよく作ってくれました。

母親は魚料理も上手。魚を釣ってきてはウナギだろうが全部さばきますからね。刺し身は手早く料理しますし。

母親は赤崎町といって海のすぐ近くの生まれで、実家は漁業をやってましたから、魚の扱いには慣れていました。生牡蠣の殻をむくのもとんでもなく速かったです。

手先が器用で、料理ではないですが、洋裁も得意。浴衣、寝間着、僕ら子どもの半ズボンを生地から作っちゃうんです。学生のワイシャツも。昔ながらの足で踏むミシンで何でも作りました。

僕が還暦の時には手編みのベストをくれて。それを着て仕事場に行くと周りからは「いい服、着てるじゃないか」と言われ、「おふくろの手作りだよ」と教えると、みんな「へえー!」と驚いてました。

昔は姉が着ていた服も僕が着られるようにリメークしたり。布団が傷んでも買わずに直しましたからね。今でいえばサステナブル。

僕は子どもの頃、母親は全員が洋裁ができるものだと思っていましたけど、そうじゃないですものね。

母親は器用だし、料理も洋裁も好きだったみたいです。とにかく何でもできる人でした。

90歳で他界しましたけど、亡くなるまでいろんなものを作り続けましたよ。いい母親だったなあとしみじみと思います。

僕は今68歳で、来年は歌手デビュー50周年。いろんな企画を考えていますが、記念のコンサートは東京と故郷の大船渡市でぜひやろうと計画してます。その時はぜひお越しください。

(聞き手=松野大介)

▽新沼謙治(にいぬま・けんじ) 1956年2月、岩手県出身。「スター誕生」から76年に「おもいで岬」で歌手デビュー。「嫁に来ないか」で日本レコード大賞新人賞。歌番組やコンサートで活躍。6月11~13日「熱唱歌のステージ~名曲をあなたに~」(九州ソワード公演)、7月2日「四人衆コンサート~お客様の笑顔と拍手に支えられて~」(相模女子大学グリーンホール)。

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