「物言えぬ人の代わりに物を言う」弁護士・鴨志田裕美さん 父が経験していた“ハンセン病差別”【令和の寅子たち(3)】

「三淵嘉子さんが、定年を迎え横浜家裁を笑顔で後にしたときにかぶっていたのが、赤いベレー帽。今日は私もかぶってきました(笑)」

キュートな笑みを浮かべながら、そう話すのは、日本弁護士連合会で、再審法改正実現本部の本部長代行を務める、Kollect京都法律事務所の鴨志田祐美弁護士(61)。

毎朝、仕事に出かける前に『虎に翼』を見て、「よし、今日も頑張るぞ!」と気合を入れているとか。

経歴がとてもユニークで、大学卒業後、社会人、結婚、出産、そして予備校講師を経て、なんと40歳で司法試験に合格したという“変わり種”なのだ。

「鹿児島でやっていたときは、“マチ弁”(町医者的弁護士)として、民事事件、家事事件(離婚・相続等)、刑事事件など、さまざまな案件を手がけてきました」

その一方で、彼女は「大崎事件」の弁護人を20年間も続けている。現在は、「大崎事件」での再審無罪の獲得と、冤罪被害者の真の救済を可能とする再審法改正の実現を車の両輪と捉え、自らのライフワークとして活動している。

「大崎事件」――1979年10月、鹿児島県の大隅半島にある、大崎町内の小さな集落で、当時42歳の男性が牛小屋の中で、堆肥に埋められた状態で発見された、「殺人・死体遺棄事件」。主犯とされ、懲役10年の実刑となったのが、原口アヤ子さん(96)。

彼女は事件発覚当時から、そして出所した後も、一貫して無実を主張している。

そのアヤ子さんをずっと支え続けているのが鴨志田弁護士だ。

「『大崎事件』は、これまで地裁で2回、高裁で1回、再審開始決定が出されています。ひとつの事件で、3回再審開始決定が下されたのは、日本ではこの事件だけです」

だが、いずれも検察官の不服申し立てにより、再審開始決定が覆されている。

「この事件は、“有罪か無罪か”ではなく、“再審を行うか、否か”で、1995年の第一次再審請求から29年間も闘い続けているのです。

私たちはこれを“再審妨害”と呼んでいます。日本の再審制度そのものを改正しなければ、冤罪被害者を救うことはできません」

物的証拠もなく、知的障がいのある3人の人物の供述によって、アヤ子さんは逮捕された。

「3人は言葉をうまく伝えることができない“供述弱者”なんです。

私の弟に知的障がいがあったので、その縁でたくさんの人と接してきました。知的障がいのある人は、争いごとが苦手で、ましてや取り調べで、強い口調で攻め立てられると固まってしまい、抗うことなどできなかったはずです」

■物を言えない人の代わりに物を言う

鴨志田さんは、子供のころから障がいのある人や在日韓国人・朝鮮人への差別や偏見を目の当たりにしてきた。

「極めつきは、私が高校生のときでした。父親が亡くなった後に、父の義兄がハンセン病の療養所にいたことを初めて知ったのです。父からは、伯父は早くに亡くなったと聞いていたので、本当に驚き、ショックを受けました。

父は自分の妻や娘にも、身内にハンセン病の患者がいることを言えないまま亡くなったのです。当時、それほど凄まじい差別があったのだと実感させられました。

そういう経験から、私は“物言えぬ人の代わりに物を言う”弁護士になろうと思ったのです」

40歳を過ぎてから弁護士になった鴨志田さん。ライフワークとしている再審法改正が実現すれば、自分が弁護士になった意味が十分にあったのではないかと感じている。だから、何としても法改正をするまでは、やめるわけにはいかないと強い覚悟を持っているのだ。

「日本の再審法のルーツはドイツです。そのドイツでは検察官の不服申し立ては立法で禁止しています。本家はもうやめているのに、日本はまだこんな制度を残したままです。

再審が認められても、検察官が不服申し立てをすることで、いたずらに時間をかけるだけ。すぐにでも法改正をしないと、また次の犠牲者が生まれてしまいます」

再審法は、大正時代からの規定がほとんどそのままスライドしてきており、すでに100年変わっていないそうだ。

「私が三淵さんのことを敬愛しているのは、“女性初”だからでも“女性の代弁者”だからでもありません。救うべき弱者を現状の法制度が救えないのなら、その法制度を変える。それを実現するために闘い続けた、彼女の“ヒューマニズム”に強く共感するからです」

ベレー帽はその象徴なのだ!

【PROFILE】

かもしだ・ゆみ

早稲田大学法学部卒業、司法修習57期。2007~2015年、鹿児島家庭裁判所家事調停委員、鹿児島地方・簡易裁判所民事調停委員。2021年、京都弁護士会に移籍、2022年、Kollect京都法律事務所設立。現在、日本弁護士連合会再審法改正実現本部本部長代行

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