ソウルの乙支路1街。知人と北朝鮮料理店に行くことになった。彼は月に1回ぐらい、無性に北朝鮮料理が食べたくなるという。中毒……ともいっていた。
入ったのは南浦麵屋という店だった。北朝鮮料理店というと、外貨稼ぎのための北朝鮮レストランや脱北者が韓国で開いた店が思い浮かんでしまう。しかしソウルには、そんな政治的な背景のない北朝鮮料理店が少なくない。南浦麵屋もそのひとつだった。オーナーの祖母が北朝鮮出身。その地方の味をソウルで……という思いで開いた店だった。いまもその味を守っている。それだけの話だった。
■ソウルの北朝鮮料理店、辛くない白菜キムチ
「この店は冷麺とチェバンという鍋料理が有名だけど、温麵のほうが好き」
そういう知人に倣って僕も温麵にした。韓国の店だから、最初にキムチなどの小皿が出てくる。白菜キムチを食べてみた。見た目は韓国でよく出てくる白菜キムチである。
それを食べたとき、ひとつの回路がつながった。韓国の白菜キムチに比べると、唐辛子の刺激がほとんどない。それでいて、なんともいえない味がある……。
舌の記憶は、以前、中国の丹東にあった北朝鮮レストランに飛んだ。そこで食べたキムチの味だった。
味の記憶は連鎖する。ソウルで脱北者の女性が経営するというバーに連れていってもらったことがあった。ウイスキーのビール割りという強い酒ががんがん出てくる店だったが、つまみに何種類かの小皿があった。そのなかの白菜キムチ……。辛みは弱いが、味はしっかりしている。
キムチの記憶の旅は中央アジアへも飛ぶ。ウズベキスタンのタシケント。僕は毎日、そこにある大きなバザールに足を運んでいた。
旧ソ連が崩壊し、その流れのなかでウズベキスタンが独立した。それから10年ほどがたった時期だった。市内には旧ソ連時代の残影で飲食店が少なかった。タシケントはシルクロードの街で、やってくる観光客向けの高級レストランはあったが、僕のような旅行者向きの安い庶民派食堂が少なかった。それが集まっていたのがバザール周辺だったのだ。
バザールも楽しかった。シルクロードの街のバザールは円形である。通路は同心円状につくられている。外から入る通路はどれも円の中央に向かってのびている。その通路で区切られた区画に商品が並ぶ。区画ごとに商品も分けられている。
シルクロードのバザールは、その規模に関係なく、このスタイルだった。かつて隊商は円の中心に向かう通路を入ってきた。なかで両替をし、食べ物を調達し、だいたいバザールの脇にあるキャラバンサライという隊商宿に泊まった。
僕が毎日通ったタシケントのバザールには、2階があった。といっても壁にそって円形の通路という2階である。そこにはクルミや干しブドウといった乾物系が置かれていた。その2階から1階の市場を飽きもせずに眺めていた。いちばん広いスペースをとっていたのが羊肉コーナーだった。国民の多くがイスラム教徒だった。その前にチーズコーナー、野菜コーナーもあった。しかし1ブロックから2ブロックを必ずキムチが占めていた。そこでキムチを売るのは、アジア系の中年女性が多かった。
彼女らの両親は朝鮮から移住した人たちだった。朝鮮が北と南に分断される前の話である。旧ソ連領内に暮らしていたが、そこが崩壊していくなかで、中央アジアに誕生した新興国に移る人が多かった。仕事や安全を考えてのことだろうが、難しい決断だったと思う。
もともと中央アジアには少ないながらも朝鮮系の人たちはいた。彼らに助けられてキムチをつくり、バザールの一角で店を開いたのだろう。
ウズベキスタンの主食はパン。羊肉を食べることが多い。そんな料理にキムチは合う?
僕は毎日のようにキムチを食べていた。バザールのキムチ売り場に行くと、同じアジア顔に親近感が湧くのか、店の女性は、少量のキムチを、「食べてみて?」とくれることが多かったのだ。そのキムチは辛みが弱かった。北朝鮮系だった。おそらく彼女たちの親の出身が北側なのだろう。タシケントのバザールの片隅でキムチを食べながら、ふとこんなことを思った。
「北側のキムチはサラダ感覚が強い……」
そんな気がしたのだ。(つづく)