勝俣州和「一世風靡で人間力が磨かれました」昭和・平成・令和の芸能界を駆け抜ける特攻隊長

勝俣州和

「ファン0人説」でイジられていた勝俣州和だが、現在、YouTubeチャンネルの登録者数は16万人超え。『キョコロヒー』(テレビ朝日系)では「差し入れの達人」として出演しており、令和になっても絶好調だ。なぜ勝っちゃんは芸能界をサバイブできたのか。その秘訣を直撃!

―― 柳葉敏郎さんと哀川翔さんが在籍する劇男一世風靡に入った経緯を教えてください。

「学校の先生になりたくて日本大学の文理学部に入ったんですけど、4年の春に“クラスの成績上位2名しか教師になれない”と聞いて。勉強を教えるだけではなく、生徒の悩みを聞くことができる教師になりたかったのに、“人間性じゃなくて成績で決まるんだ”と失望して、その日に大学を辞めたんです。ただ、東京で何も会得していないので、実家に帰って家業を継ぐにしても事業を起こすにしても、その前に“どこかで根性をつけたい”と一世風靡の門を叩きました。一世風靡は日本中の番長が集まった“男塾”みたいなイメージがあったので」

――実際に“男塾”でしたか?

「イメージ通り、ケンカばかりしてました。ただ、それぞれが自分の哲学を持っていたんです。出会ったことのない人ばかりで、一世風靡で人間力が磨かれました。柳葉さんはすでに忙しかったので稽古にあまり来ることができなかったんですけど、翔さんは稽古に顔を出してくれて。一番下っ端の僕に“お前、プロレスできるか?”と聞いてきて、みんなが振り付けの練習をしている隅っこで、翔さんと僕は“プロレスごっこ”を毎日2時間やっていたんです。そのうちに“家に遊びに来い”と言われるようになって。2年間、ずーっと翔さんと一緒に過ごしていたんです。濃密な時間でした」

―― 哀川翔さんはどんな方でしたか?

「本屋に行くと、翔さんはさまざまなジャンルの本を30冊くらい買うんです。そこで得た知識を自分のものにして、アウトプットする能力も高いので、何を聞いても答えてくれました。門が広くて、飛び込んだら深い人なんです。“トップ”は前に前に出れば誰でもなれる可能性があるけど、翔さんのような人望がないと“統める人”になれないんだ、と感じました」

――一世風靡でしくじったことはあるんですか?

「毎日しくじってましたよ。一世風靡はスーツに革靴で踊っていたんですけど、柳葉さんは白いコンバースのハイカット、翔さんは黒いコンバースのハイカットを履いていたので、“じゃあ、僕は”と赤のコンバースを履いていたら、まわりから“何を履いているんだ?”と詰められて。100年早いと言われ履くことを許されませんでした。芝居の稽古で、僕は国文学科出身だったので、先輩に“セリフの意図を間違えてます”と説明すると“出て行け”と怒鳴られて」

芸能界に入ろうと思っていませんでした

――「しくじり」というか、自分を貫いた結果、怒られていたんですね。

「早く人間的に成長して、実家に帰って親孝行したいと思っていたから、遠慮している場合じゃなかったんです。芸能の世界で生きていきたいと考えているメンバーは、上の人間に気を遣っていたかもしれないけど、僕は芸能界に入ろうと思っていませんでしたから」

―― そのマインドは萩本欽一さんのところに行っても変わりませんでしたか?

「欽ちゃんの番組(『欽きらリン530!!』日本テレビ系)のオーディションに受かっても、まだ芸能界に入る気はありませんでした。稽古が1日10時間以上あって、昼の12時から始めて、深夜2時、3時になることもあったんです。欽ちゃんに怒られて泣いてしまう人が信じられなくて。だって、できないところを教えてもらっているんですよ。わからなかったら聞きに行けばいいじゃん。欽ちゃんは“聞いちゃダメ”というルールがあるらしいけど、僕はそんなことを知らないからガンガン聞いてました(笑)。欽ちゃんじゃなくても、ディレクターや放送作家に聞けばいい。実際、ウケなかったネタを欽ちゃんに直してもらうとグッと面白くなるんです。自信があるネタを2つ、ダメとわかっているネタを3つ持っていって、欽ちゃんに直してもらう。そうやって技を盗んでいました。芸能界って当たらずに砕けている人が多いんです。そりゃ、華々しくデビューしても『あの人はいま』になるだろうなと思いました」

――『欽きらリン530!!』でCHA-CHAが結成されますが、アイドルとして人気者になっても「芸能界で頑張ろう」と思いませんでしたか?

いまと違って、当時の男性アイドルは光GENJIとCHA-CHAだけだったんです。そのうえ、光GENJIは気軽に会えないけど、僕らは握手できるし、ファンレターに返事を書いてましたから、そりゃあ人気が出ますよ。ただ、アイドルだったので、2、3年で人気が落ちるだろうと。
それこそ『あの人はいま』になると思っていたんです。10年後くらいに、カメラが後ろから来て“勝俣さ~ん”と呼ばれて、振り返るとハゲて太った自分が微笑んでいる。そんなシーンを想像したらゾッとして。実際、営業先がデパートの屋上や動物園のステージにスケールダウンしていったんです」

――CHA-CHAは約3年半で解散します。

「半年くらい、まったく仕事がない時期があって。毎週、彼女とディズニーランドでデートをしていたんですけど、楽しくて仕方なかった(笑)。芸能界にこだわりがないから、“別の仕事をすればいいや”と楽観的でした。CHA-CHAになる前にバイトしていた弁当屋を繫盛させた経験があって。その社長から“いつか店を開くことになったら、この通りにやればいいから”とマニュアル一式をもらっていたので、まず開店資金を貯めようと考えていたんです」

気づいたら10 年、20年と芸能界にいることに

――でも、バラエティ番組から引っ張りだこになるわけですよね。

「CHA-CHA時代、ウッチャンナンチャンが主演するドラマに出ることになって。同じ年齢で、地方出身という共通点から、2人と意気投合したんです。ウンナンが『やるならやらねば』(フジテレビ系)でコントをやる際、「勝っちゃんがいるとやりやすい」とキャスティングしてくれたんです。
僕は欽ちゃんの教えを守って台本通りやらずに、ストーリーを踏まえつつアドリブでやったらめちゃくちゃウケて。プロデューサーが吉田正樹さん、ディレクターが片岡飛鳥さんだったんですけど、“毎週出てほしい”とレギュラーに決まったんです。失敗を恐れなかったのがよかったのかなと思います。さらに『笑っていいとも!』(フジテレビ系)、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)、ダウンタウンの番組、明石家さんまさんの番組、和田アキ子さんの番組と、いろんな番組に呼ばれるようになると、スケジュール帳が真っ黒になって、計画していた弁当屋ができない(笑)。“この世界で生き残ってやる”と自分から爪を立てたわけじゃないけど、気づいたら10 年、20年と芸能界にいることになってました」

―― とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンとフラットに接している勝俣さんは稀有な存在だと思います。

「なんでもできるから主役なんだと思っていたけど、決してそんなことはなくて。『ウンナンの気分は上々。』(日本テレビ系)では、プロデューサーが“ウッチャンもナンチャンも人見知りだから、勝っちゃんがゲストとの間を取り持ってロケをしてほしい”と言われていたんです。吉川晃司さんや細木数子さんといった大御所と自分からコミュニケーションを取らなきゃいけなくて。そのおかげで幅が広がりました。
『生ダラ』では、“とんねるずは進行ができないので、勝っちゃんにやってほしい”と任されました。アナウンサーの福澤朗さんもいたけど、“勝っちゃんは強めにツッコめるから”と言われて。ゲストの方には“失礼なことを言ってしまうかもしれませんが”と事前に楽屋挨拶していました。そうしているうちに根が深くなって、“芸能界でやっていけるんじゃないか”と思うようになったんです」

勝俣州和(かつまた・くにかず)
1965年3月12日生まれ、静岡県出身。「劇男一世風靡」のメンバーとしてキャリア
をスタート。1988年に男性アイドルグループ・CHA-CHAを結成。“究極のバイプレーヤー”“企画成立屋”と呼ばれるなど、バラエティ番組を中心に活躍している。『朝だ!生です旅サラダ』(テレビ朝日系)、『アッコにおまかせ』(TBS系)に出演中。YouTubeチャンネル「勝俣かっちゃんねる」

【画像】勝俣州和の人間力を磨いてくれた「一世風靡セピア」の大恩人、哀川翔がゲストの『勝俣かっちゃんねる』146万回視聴を記録!

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