日本史上、初の「テロによる政権交代」となった犬養毅…“教科書には載っていない話”がカッコよすぎる

※出所:『近世名士写真』其1,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514946(参照 2024-05-20)をトリミングのうえ掲載

五・一五事件で殺害された第29代総理、犬養毅。学生時代に習う歴代総理の中でも、日本史上初の「テロによる政権交代」が起こった代として記憶に残っている方もいるでしょう。犬養毅とはどのような人物だったのか? キャリア、名言、性格、エピソード等々、「教科書には載っていない話」も含めて見ていきましょう。伊藤賀一氏の著書『アイム総理 歴代101代64人の内閣総理大臣がおもしろいほどよくわかる本』(KADOKAWA)より一部を抜粋し、紹介します。

<前回記事> 若い頃は「細身でお洒落な超イケメン」だった…!「ニコニコしながら肩をポン」で相手をその気にさせた“人タラシ総理”

※表記年齢は数え年で統一し、没年齢は、実年齢表記としています。

話せばわかる神様、犬養毅

イラスト:ヤギワタル

【組閣の経緯】

満洲事変勃発で閣内不一致となった立憲民政党の第二次若槻礼次郎内閣が総辞職。「憲政の常道」にのっとり、元老・西園寺公望(きんもち)が第6代立憲政友会総裁の犬養毅を首班に推薦。約8年続いた戦前の二大政党政治「憲政の常道」最後の内閣。

【就任時の年齢】

76歳

【退陣の理由】

五・一五事件で海軍青年将校・陸軍士官候補生・橘孝三郎(こうざぶろう)主宰の農本主義団体愛郷塾(あいきょうじゅく)員らに殺害される。この後、第7代総裁となった鈴木喜三郎(きさぶろう)は政友会内閣を継続できず、海軍の斎藤実(まこと)が「挙国一致内閣」を組閣。テロによる初の政権交代。

【生没年】

1855〔安政2〕年4月20日〜1932年5月15日(77歳没)
髙橋是清(これきよ)の1歳下で、尾崎行雄の3歳上・加藤高明(たかあき)の5歳上。

【キャッチフレーズ】

①「憲政の神様」:
第一次護憲運動以来、尾崎行雄とともに呼ばれたが、メインは初回から衆議院議員選挙25回連続当選(最後は落選)の尾崎で、常に「じゃないほう」扱い。しかし犬養は、尾崎に次ぐ18回・補選込みで19回連続当選(落選なし)の記録を持ち、首相にまで駆け上がっている。

②「話せばわかる」:
襲撃された時に何度もこう言って毅然と対処したが、「問答無用」と一斉に射撃された。

③「産業立国主義」:
世界の大勢上、産業競争に乗り出す必要を説き、大陸への侵略主義には反対していた。

【出生】

岡山県(備中国〔びっちゅうのくに〕)出身
岡山市で、庭瀬藩の大庄屋〔郷士〕犬飼家の次男に生まれる。

【学び】

父から四書五経の素読(そどく)を受け、6歳から元藩医に漢学を学ぶ。10歳で私塾に移り漢学の経典(=経学〔けいがく〕)を修めた。13歳で父が亡くなり、翌年から自宅で寺子屋を開く。師が倉敷の教諭所明倫館に移った後は伯父の家に住み込んで通った。1872年、岡山県西部~広島県東部に設置されていた小田県庁に17歳で出仕するも2年で退職。洋学(=英学)を志して20歳で姓を「犬養」に改め上京、共慣義塾(きょうかんぎじゅく)に通い、二松學舍(にしょうがくしゃ)で漢学も学ぶ。この頃から『郵便報知新聞』に記者として寄稿を始め、学費を賄いながら21歳で福沢諭吉の慶應義塾に転学して英学や経済を学んだ。

一度は政界引退するも、勝手に立候補届を出されて当選。その後組閣へ

【キャリア】元ジャーナリスト

1877年、郵便報知新聞社から西南戦争の従軍記者として特派され104回にわたる『戦地直報』が大好評となる(22歳)→常に首席だったが卒業直前の試験のみ2番だったことを恥じ慶應義塾を退学→『東海経済新報』を創刊し『東京経済雑誌』の田口卯吉(うきち)と経済学論争を展開し大評判となる(25歳、犬養は保護貿易・田口は自由貿易を説く)→1881年、矢野龍溪(りゅうけい/文雄〔ふみお〕)の推薦で参議大隈重信の下で統計院に出仕するが3ヵ月で退官(26歳、明治十四年の政変で大隈が下野したため)→1882年、大隈の立憲改進党結成に参加(27歳、東京府議会議員にも当選し『東海経済新報』は廃刊)→『秋田日報』主筆として秋田市に赴任(28歳、「致遠館(ちおんかん)」という塾を設け経済なども講じたが8ヵ月で帰京し郵便報知新聞社に復帰)→特派員として朝鮮に赴く(29歳)→帰国して『朝野(ちょうや)新聞』に移る(30歳)→尾崎行雄らとともに朝野新聞社幹部に(34歳)→

…→1890年、東京府会議員を退任し第一回衆議院議員総選挙で初当選(35歳、朝野新聞社も退社)→立憲改進党を脱党し地域政党の中国進歩党を組織(39歳)→1896年、大隈の進歩党結成に参加(41歳、アメリカから中国に帰る途中の孫文〔そんぶん〕と横浜で初会談)→来日した孫文と再度会談(42歳、宮崎滔天〔とうてん〕が仲介)→1898年、進歩党と自由党が合同し憲政党となり第一次大隈重信内閣〔隈板(わいはん)内閣〕組閣→文部大臣尾崎行雄の共和演説事件での辞任を受けて文相で初入閣→憲政党(旧自由党・星亨〔とおる〕ら)と憲政本党(旧進歩党・大隈重信ら)に分裂し総辞職(43歳)→孫文が日本に亡命し犬養が保護(44歳、犬養はフィリピン独立革命勢力も支援)→1905年、孫文が日本で中国同盟会を結成(50歳、犬養が玄洋社の頭山満〔とうやまみつる〕・平岡浩太郎や宮崎滔天とともに支援)→

…→1910年、憲政本党を母体に立憲国民党結成(55歳)→1912年、立憲政友会に移っていた尾崎行雄とともに「閥族打破」「憲政擁護」を掲げ第一次護憲運動の先頭に立ち第三次桂太郎内閣を攻撃(57歳)→1913年、第一次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の入閣要請を断る(58歳)→1914年、第二次大隈内閣の入閣要請を断る(59歳、好意的中立を約束)→三浦梧楼(ごろう)邸にて立憲政友会原敬・憲政会加藤高明と三党党首会談(61歳)→寺内正毅(まさたけ)内閣が設置した臨時外交調査会委員となる(62歳)→原内閣に対し普通選挙運動の先頭に立つ(65歳)→立憲国民党を解党し革新倶楽部(クラブ)結成(67歳)→1923年、第二次山本内閣の逓信大臣兼文部大臣に就任(68歳、同年「虎の門事件」で総辞職)→1924年、三浦梧楼邸で立憲政友会高橋是清・憲政会加藤高明と三党党首会談の末「護憲三派」結成→第二次護憲運動の結果総選挙に圧勝し清浦奎吾(きようらけいご)内閣を打倒→加藤内閣の逓相に就任(69歳)→

…→1925年、革新倶楽部を立憲政友会に合流させ政界引退を表明→補欠選挙に当選し復帰(70歳)→1929年、第5代総裁田中義一(ぎいち)が急死し第6代立憲政友会総裁(74歳)→1930年、ロンドン海軍軍縮条約の統帥権干犯問題で浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃(75歳)、1931年、満洲事変後の閣内不一致で総辞職した立憲民政党の第二次若槻礼次郎内閣に代わり組閣(76歳、外相のち内相を兼任)→1932年、血盟団事件で暗殺対象となるが免れる→五・一五事件で射殺される(77歳、犯人たちへの国民の助命嘆願があり一人も死刑にはならなかったが、それを批判したジャーナリストは、『信濃毎日新聞』の桐生悠々〔きりゅうゆうゆう〕と『福岡日日新聞』の菊竹六鼓〔ろっこ〕のみだった)

犬養毅の人間関係

【ライバル】

尾崎行雄〔咢堂(がくどう)〕。慶應義塾の同窓かつ統計院の同僚で、立憲改進党→進歩党→憲政党設立や革新倶楽部創設も一緒。少数派になろうとも立憲改進党結党の精神を守り続ける犬養毅〔木堂(ぼくどう)〕とは違い、尾崎は党派や態度に一貫性がなく立憲政友会に行ったり中正会を立ち上げたりで、2人は(尾崎の側が勝手に)くっついたり離れたりした。

【友人】

頭山満(アジア主義を採る玄洋社の総帥で犬養とともに中国問題で活躍 ※女優黒木瞳の夫の曾祖父)、宇垣一成(うがきかずしげ。軍縮を進めた同じ岡山県出身の陸軍大臣で犬養より13歳下 ※元アナウンサー宇垣美里の祖父の大叔父)。

【私淑した政治家】

大隈重信、後藤象二郎(しょうじろう)(土佐藩→自由党)。

【世話になった人】

福沢諭吉、矢野龍溪〔文雄〕ら。

【世話をした人】

孫文(中国から亡命した彼に屋敷を斡旋するなど支援、犬養は蔣介石〔しょうかいせき〕ら他の中国要人とも親しい)、町田忠治(まちだちゅうじ。第3代立憲民政党総裁、『秋田日報』主筆時代の塾生)。

銃撃されるも「(襲撃犯を)呼び戻せ、話して聞かせることがある」

【名言】

①「いまの若いモンを呼んでこい、話して聞かせることがある」
⇒五・一五事件で撃たれた直後、介抱する女中に向かって(「話せばわかる」“大正デモクラシー”の論理が通じない「問答無用」の昭和7年だった)。

②「あんな近いところから撃って、たった2発しか当たらんとは、兵隊の訓練もなっとらんな」
⇒7発撃たれた後、駆け付けた息子の健(たける)に(※実際は9発中3発命中)。

【性格】

①忖度(そんたく)せず毒舌。不用意に敵を作ってしまい、側近の古島一雄(こじまかずお)は常に困り果てていた。

②困っている人を放っておけず面倒を見ることが多い。特に数多くの亡命者を庇護したことが有名。中国革命派の孫文のみならず、改良派の康有為(こうゆうい)、朝鮮独立党の金玉均(キムオッキュン)、インド独立運動者ラス=ビハリ=ボース、ベトナム皇太子クォン=デなど。

【エピソード】

①第二次山本内閣の逓相兼文相時、関東大震災で郵便貯金通帳を失った人たちに「この場合に虚偽の申告をするような国民は唯の一人もないと我が輩は深く信じている。日本人は正直だからなァ」と微笑し、自己申告通り全額支払った。

②革新倶楽部を立憲政友会に合流させた後、加藤内閣の逓相も辞職して政界を引退したが、地元の岡山県でそれに伴う補欠選挙が行われた時、引退を許さない地元の支持者たちが勝手に立候補届を出し、当選してしまい復帰する羽目に。逓信省を去る時も、男女職員約1000名が会費10銭の送別会を開き大臣を招待。下の者に優しかった犬養は大いに慕われていた。

③1932年、朝鮮の独立運動家李奉昌(イボンチャン)の手榴弾投擲(とうてき)による昭和天皇暗殺未遂「桜田門事件」が起き、即日内閣総辞職を決意するが、天皇の慰留により翻意(ほんい)し「心境の変化」という言葉を残している。

④五・一五事件当時はアメリカの喜劇王チャップリンが来日しており、彼も暗殺の標的だった。しかし、犬養との会談を「相撲が見たい」という理由でキャンセルしていたことで命拾いした。

【犬養毅が始めたもの】

①逓信大臣となった時、「大臣」「閣下」と呼んでも犬養が(他にも沢山いることから)なかなか反応しないのを見た省内の官僚たちが、「先生」と声をかけるようにした(政治家を「先生」と呼ぶ風習の始まり)。

②1925年、逓相としてラジオ放送開始。

【趣味】

熱中しすぎた囲碁の他に、若い時からの読書。書や漢詩も巧み。

【豆知識】

歴代首相一とも言われる150cm前後の低身長だが、品や気迫があった。同じく150cmほどで「身長5フィートの巨人」と呼ばれ国際的に活躍した緒方貞子(国連難民高等弁務官)と、女優の安藤サクラ(母の和津〔かづ〕が犬養健の子)は犬養の曾孫。

伊藤 賀一
スタディサプリ講師
1972年京都生まれ。新選組で知られる壬生に育つ。法政大学文学部史学科卒業後、東進ハイスクール、秀英予備校などを経て、リクルート運営のオンライン予備校「スタディサプリ」で高校日本史、歴史総合、公共、倫理、政治・経済、現代社会、中学地理、歴史、公民の9科目を担当する“日本一生徒数の多い社会講師”。
著書・監修書に『改訂版 世界一おもしろい 日本史の授業』、『笑う日本史』『「カゲロウデイズ」で中学歴史が面白いほどわかる本』(以上、KADOKAWA)、『1日1ページで身につく! 歴史と地理の新しい教養365』(幻冬舎新書)、『くわしい 中学公民』(文英堂)など多数。

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