【読書亡羊】それでもツイッターは踊る 津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』(ちくまプリマー新書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

常に誰かがどこかで怒っている

今回ご紹介する津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』(ちくまプリマー新書)、思わず「確かになあ」と手に取ってしまうタイトルだ。

ネット、としながらも本書が対象としているのはSNS、それも主にツイッター/X。常に誰かがどこかで怒りを発出し、その怒りがさらなる共感的怒りや反発としての怒りを生み出し、「揉めている」昨今、このタイトルにピンとくる人は多いのではないだろうか。

あまりにも揉め事が多すぎて、日ごろ「かなり頻繁にツイッターを覗いている」というヘビーユーザーでもすべての「揉め事・炎上案件」を負いきれなくなってきているのが現状。炎上騒ぎに気付いても、火元がどこなのかを辿ることさえ苦労する。

本書の著者・津田氏はメディアコミュニケーションの研究者。自身が大炎上した「表現の自由」にまつわる案件を入り口に、SNS上で起きる様々な現象――炎上、分断、被害者ポジション取り争い、メディア批判など――を分析している。

ちくまプリマー新書はその名の通り入門書に位置付けられる若い世代向けの切り口やテーマが多い。しかし、本書は読みやすさこそ入門書と言って差し支えないものの、その段階にはとどまらない。

国内外のこれまでの研究成果、それもメディア論のみならず幅広い分野の知見を渉猟したうえ、津田氏自身の「炎上経験」からも考察した本書は、SNSの現在地とこれからを知るうえで最適と言える分析になっている。

中でも、以前本欄でも紹介したエコーチェンバーの通説を覆す実証を行ったクリス・ベイル『ソーシャルメディア・プリズム』(みすず書房)を引きつつ、「エコーチェンバー説の限界(崩壊)」に触れた第3章は見逃せない。

「頂き女子」「刺殺男性」を擁護する心理とは

日々、盛り上がっては消えていく揉め事の中から最近の一例をあげると、「頂き女子」と「貢いだ女性に裏切られて相手を刺殺した男性」を巡る争いがある。

「頂き女子」はホストに貢いだ経験を持つ女性が、その経験を踏まえて金を持っている年上男性に恋愛感情を抱かせ、相手からいかに金を巻き上げるかを実践し、そのハウツーをまとめて販売していた件だ。

逮捕され、懲役9年の判決を受けたことで、一部の女性アカウントから「量刑が重すぎる」と同情的な見解が出ており、さらにその同情をおかしいと考える男性アカウントが女性アカウントの書き込みを非難し、男女の対立構図が激化しているという状況にある。

一方、ガールズバーで知り合った女性に1000万円を貢いだが、その後ストーカー扱いされた男性が女性を刺殺した事件。

男性が趣味のバイクや車を売ってまで貢ぐ金を工面したという経緯も相まって、殺人を犯した男性に同情的な男性アカウントからの犯人擁護の書き込みが散見される。中には被害者女性を非難するような書き込みすらある。

もちろん、同性に対して批判的なことを書き込むまっとうなアカウントもあるのだが、「性別」はSNS上の分断における大きな要素の一つとなっている。

面白いのは、分断されているはずの両陣営には共通点もあり、ほとんど合わせ鏡のようになっている点だ。それは「互いに自分の擁護する相手を被害者に位置付けている」ことで、「頂き女子」も「相手を刺殺した男性」も、誰がどう見ても加害者なのだが、両者を擁護したいと考える人たちは、両者の「被害者」の側面をことさらクローズアップするのだ。

自身が「被害者ポジションを取る」しぐさというのはSNSでは頻繁にみられるものなのだが、こうした「(加害の部分は棚上げして)自分の擁護する相手の被害的側面を過大に見る」こともまた、よく起こりがちなのである。

「被害者ぶる人たち」の心象風景

なぜこんなことになるのか。本書の第3章は〈エコーチェンバーの崩壊と拡大する被害者意識〉として、この点をていねいに分析している。

被害者的世界観は、とりわけ集団間の対立が生じている状況では広がりやすくなります。自分たちの側が一方的に痛みを強いられ、相手側は恩恵を受けるばかりだとの意識が強くなりやすいのです。

まさに男女という集団の間で起きているのはこのメカニズムだろう。一部の女性が「長い人類の歴史の中で、女性はいつも犠牲者の立場に置かれてきた」と考え、一部の男性は「昨今のフェミニズムの隆盛で、男性ばかりが悪者にされている」と考える。相容れるわけがない。

いずれの言い分にもそれぞれ一分の道理はあると思うが、だからと言って人から金を巻き上げたり、刺殺したりした人物は被害者にはなりえない、という大前提が後景にひいてしまっているのは問題だろう。

しかも、一部の人々は加害者を被害者に置き換えるだけでなく、その被害者意識を自らに憑依させて、まるでわがことのように「論戦」を展開しているのだ。

こうして互いへの憎悪はSNSを介して増幅し、さらには本書も指摘するようにSNS上での振る舞いが〈対立する党派への「逆張り」や「嫌がらせ」に近づいていく〉となれば、もはやSNS上でこの手の論争をしても意味のある結論にはたどり着けない、ということになる。

「相手の言い分には頑として説得されない」ことが目的化し、文章を素直に読むのではなく、上げ足を取ったり書いていないことを読み込んだりと、曲解に次ぐ曲解を重ねて無理やりにでも「敵認定」から外れないように仕立て上げてしまうからだ。

違う意見に耳を傾けたら相手をもっと嫌いになった! クリス・ベイル『ソーシャルメディア・プリズム』(みすず書房) | Hanadaプラス

それでもなぜSNSをやるのか

「そんなに絶望的な状況で、悪影響しかないならSNSなんてやめてしまえばいいのに」

あまりSNSをやらない人からすればそういう話になるのだろうが、最終章〈単純さと複雑さのせめぎ合い〉で津田氏が書いているように、SNSには利点も、いい話もたくさんある。何より、それまでは何らかのメディアに載らなければ存在すら知りえなかった人々の思いや発想、〈生活の断片〉を垣間見ることができるからだ。

これまで同一線上で目にすることのなかった様々な階層・立場の人たちの意見や生活を目にすることができ、時にはそこに接点が生まれもする魅力的なツールだからこそ、炎上や誹謗中傷など様々なマイナスはあっても多くの人は使い続けるのであろう。

もちろん、金儲けや承認欲求を満たすために人を貶めたり、形成不利と見るや被害者ポジションを取る不届き者もいるが、こういうものとは距離を取り、自分が標的にされたら粛々と法的手段に出るしかない。

津田氏は、対立集団への憎悪が増幅していくような状況を改善するためのアイデアは持ち合わせていない、と率直に書きつつも、わずかな希望に触れて本書を締めくくっている。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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