【デビュー40年】ボン・ジョヴィ、デビュー曲のヒットへの経緯

ラジオがシングル曲のヒットを後押しすることは古くから常識とされてきた。とりわけ、ボン・ジョヴィのデビュー・シングルである「Runaway (夜明けのランナウェイ)」が世間の注目を浴びたのはラジオの恩恵によるところが大きかった。

実際、ロング・アイランドのラジオ局であるWAPP (103.5 FM) がこの曲にヒットの可能性を見出していなければ、その後のボン・ジョヴィのキャリアは大きく違ったものになっていたかもしれない。

<YouTube: Bon Jovi - Runaway> 

バンドでもなかった当時のボン・ジョヴィ

ジョン・ボン・ジョヴィ本人は2020年、ヴァージン・ラジオUKのクリス・エヴァンスによるインタビューで、当時のことについてこう振り返っている。

「あれは1982年のことだね。俺は“Runaway”を作曲したあとも、レコード契約を交わせないでいたんだ。それに、俺はバンドすら組めていなかった。ご存知のように、当時はオリジナル曲をやるバンドは儲からなかったからね」

その言葉の通り、ジョンが初期のコラボレーターであるジョージ・カラクの力を借りて「Runaway」を書いたとき、ボン・ジョヴィはまだバンドの体を成していなかった。とはいえ、本名をジョン・フランシス・ボンジオヴィ・ジュニアというその男は、すでに音楽業界に片足を突っ込んでいた。というのもジョンはニューヨークの有名スタジオであるパワー・ステーションで、雑用係として働いていたのだ。そしてそこは、彼の従兄弟のトニー・ボンジオヴィがプロデューサー兼エンジニアとして、グロリア・ゲイナーやトーキング・ヘッズといったアーティストの作品に携わっていた場所だった。

そのためジョンが「Runaway」を録音するときにもトニーが一肌脱いで、バックに豪華メンバーを集めてくれたという。その中にはベーシストのヒュー・マクドナルド、ドラマーのフランキー・ラロッカ、ブルース・スプリングスティーン率いるEストリート・バンドのキーボーディストだったロイ・ビタンらも含まれていた。

ラジオ局からのヒット

結果として完成したのは、スケールの大きいアンセム調のロック・ナンバーだった。同曲では切迫感のある歌声に乗せて、聴く者の共感を呼ぶ物語――家族から拒絶され、路上生活を送るようになった少女の物語――が歌われる。ジョン・ボン・ジョヴィは当初からその楽曲「Runaway」がヒットに値すると感じていたが、その実現のためには多くのリスナーに楽曲の魅力を伝える必要があった。そこへ登場したのがラジオ局WAPPだったのだ。ジョンは、ヴァージン・ラジオUKへの出演時にこう話した。

「“音楽業界で一番孤独なのは誰だろう?”って考えていたら、DJって答えにたどり着いたんだ!。そのころ、ニューヨークに新しいラジオ曲が出来たばかりだった。出来立てホヤホヤで、受付係すらいなかったんだ」

ジョンは同局に「Runaway」のテープを持参し、トップDJのチップ・ホバートとプロモーション責任者のジョン・ラスマンにそれを直接手渡した。すると二人はこの曲を大いに気に入り、ホバートは番組でこれを何度もプレイ。ラスマンも、フリーで活動する地元バンドの頂点を決めるWAPP主催のコンテストにエントリーするようジョンに勧めた。その結果、「Runaway」はぶっち切りでコンテストを制し、同曲は地元で大ヒットを収めたのである。

そして同曲の成功はドミノ式に連鎖反応を巻き起こした。これがきっかけで バンドとしてのボン・ジョヴィは結成され、さらにはA&Rに従事していたデレク・シャルマン (プログレッシヴ・ロック界の伝説的グループ、ジェントル・ジャイアントの元メンバー) の仲介でマーキュリー・レコードとの契約を果たしたのである。

ボン・ジョヴィのグループ名を冠したデビュー・アルバムは高い評価を受けたが、マーキュリーは同作からの最初のシングルに「Runaway」を選択。そうして、記念すべきこの1曲は全米チャートのトップ40に入り、デビューしたてのグループに正真正銘のヒットをもたらした。

ジョン・ボン・ジョヴィは2021年、この世を去ったチップ・ホバートに向けて、インスタグラムに次のような追悼文を投稿した。

「少年たちは誰でも、自分の曲がラジオから流れてくることを夢見るものだ。1983年、俺は“Runaway”のテープをラジオ曲に持ち込んで、一歩前に歩み出した。あの日のことについて、 (チップに) 千回は感謝したよ!」

Written By Tim Peacock

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