【桟原将司連載#9】大阪桐蔭高校に新しいルートを作れれば、と新日鐵広畑への入社を決断

新日鐵広畑OBの薮田安彦はロッテ入りし、MLBのロイヤルズでも活躍

【桟原将司 ハナの剛腕道中(9)】大阪桐蔭野球部では3年の夏の予選で4回戦敗退。社会人野球への進路を希望し練習を継続していました。ただ、確実にスカウトしてもらえるという立場でもなく、どこか決まればええなあくらいに考えているような状態でした。

すると大阪桐蔭野球部を担当してくださっていた野球メーカー「ホーマー産業」の担当者の方が、同じように出入りしていた新日鐵広畑野球部から情報をつかんできてくれたんです。

「『広畑の監督さんから高校生のええピッチャーおらへんかなあ』と相談されたんやけど『大阪桐蔭の桟原がどこも決まってないですよ』と話しておきましたよ」という具合です。その後、新日鐵広畑の監督とマネジャーが学校まで来ていただいて自分の進路がトントンと決まっていきました。

学校サイドも各生徒の進路を模索する中、僕の希望する社会人野球チームの情報を調査してくれていました。大阪桐蔭OBが在籍している社会人チームの中には僕の獲得に手を挙げてくれる企業もありました。実際には悩みましたが、僕としては先輩たちがこれまで誰も入社したことのない新日鐵広畑で新しいルートを作ることができればと考えて、進路を決定させてもらいました。

新日鐵広畑は都市対抗野球大会で優勝し、日本選手権でベスト4の経験もある名門野球部です。OBには元池田高校監督の蔦文也さんや、元近鉄監督の佐々木恭介さん、元阪神打撃コーチで、広島での現役時に2年連続首位打者を経験された正田耕三さんなど多くのプロ野球選手を輩出してきました。

ただ僕が野球部に入部した当時は投手陣が手薄な状況ではありました。新人が4人入ったうちの3人が投手でした。それなのに僕はといえば1年目はほぼ何もできず…。高校時代に痛かった肩肘をかばって投げていた影響が出てしまったんだろうと思います。

たまに試合で投げさせてもらった時には当時の社会人野球の特徴ともいえる金属バットの洗礼を思い切り受けました。アマ球界を代表する打者たちが金属バットで打席に立てば並の高校生では抑えられるはずもありません。パナソニックとの試合で1人目はバックスクリーン、2人目は左越え、3人目は右越えと全方向に本塁打を許したこともありました。

余裕で右打者が右翼へ本塁打を打ちますしね。内角球でも無理にバットの芯に当てるとファールになるので、詰まらせて切れないようにスタンドに運ぶという金属バット独特のイカツイ打撃スタイルも横行していました。

社会人時代の先輩たちは「5点差までは1点差と変わらへん」と言っていたほどでした。そんな環境で打者をねじ伏せてプロに進んでいった広畑OBのロッテ(1995年ドラ2)薮田安彦さん、西武(2000年ドラ2)三井浩二さんらは本当にすごいなと思いますね。

社会人1年目は何もできないまま終わるのか。そういう感覚もありましたが転機もありました。1年目の11月に若手選手ばかりが招集されて行われる社会人野球の教育リーグのようなものがありました。この時期から社会人野球も木製バットを使うようになるタイミングもあり、僕は大胆な挑戦に出ることになりました。

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