見知らぬ電話番号からの着信。34歳妻が、夫の元カノを名乗る女から「会って話したい」と言われ…

◆これまでのあらすじ

離婚調停が始まり、離婚への覚悟も定まってきた楓。しかし一方で、夫の謎はますます深まるばかりだった。
なぜ楓の留守中に家に来たのか?なぜ楓のほうから離婚を申し立てたのに、用意周到にすでに弁護士まで決まっているのか?
そんななか、第1回の調停が始まった。楓は弁護士の真壁に言われた通り、格安の調停ファッションで挑むが…。

▶前回:エルメスのバッグも、カルティエの時計も封印。34歳セレブ妻が、全身1万円以下の服を着る理由

Vol.7 養育費ってこんなに少ないの?

7月下旬の土曜日。

表参道のスイミング教室に娘の花奈を預けた楓は、そこから数十メートル先のカフェに入る。ママ友の晴子と約束があるのだ。

「晴子さん!ごめん、待った?」

中二階のテーブルに晴子の姿を見つけ、小さく手を振った。最近は仕事のある晴子に合わせ、週末のどちらか1日に会うようになっていた。どこかに出かける予定のない楓にとって、晴子との約束は小さな楽しみにもなっている。

「どう?調停の方は」

「うん、この間初めて行ったんだ。調停を申し立ててよかったよ。弁護士の先生がついているから、安心だもん」

楓は、先週終えたばかりの第1回の調停について、晴子に話し始める。

「主人の方は欠席だったけど。でも、相手が初回を欠席するのは割と普通なんだって…」

実際の調停は、楓の想像とはまったく違っていた。弁護士の真壁とともに調停室に入ると、会議テーブルの向かいには調停委員が2人。その前には、弁護士が事前に提出している資料やメモが広げられている。

1人は初老の女性。もう1人は見た感じ40代半ばの筋肉質な男性だった。

真壁から、「調停委員から絶対に聞かれる質問3つ」をあらかじめ教えてもらっていたため、そこまで緊張はなかった。

3つの質問に対して誠実に答えられれば、「幼い子どもを抱えながら、頑張って前を向き生きようとしている女性」という印象を調停委員に与えられるはずだという。

調停委員からの同情は、離婚においては重要なファクターだ。

調停に行く際のファッションはもちろん、楓が話すべき内容に至るまで、できる限り嘘のない範囲で演出することを真壁は重要視しているのだった。

調停において必ず聞かれる3つのこと。

それは、「結婚した経緯」。「離婚を決意した理由」。そして、「離婚後の生活について」だ。

楓の場合は、夫がすでに家を出て別居している。夫も離婚を希望している。

なのになぜ、妻側から離婚調停を申し立てたのか?

それも、調停委員が疑問に思うところだろう…というのが、真壁の考えだった。

実際に想定していた質問が投げかけられた楓は、事前に準備していた通りに答える。

夫とは好きで結婚したが、自分が見ていたのはほんの一面だった。夫は仕事と称して別居の準備を淡々と進め、次第に性格も以前とは変わってしまった、と。

また、以前の温厚で優しかった夫にはもう会えないものだと割り切り、子どものために少しでも早くリスタートを切りたい、と切々と訴えたのだった。

すべて、事前に真壁と準備しておいた答えのままだった。

「離婚を決意した理由」については一番難儀したものの、よく考えた上でやはり、本当のことを伝えた。

「へぇー、調停って意外と戦略的なんだね。でも、そこまでしてるなら養育費もばっちり取れそうじゃん」

そう言って晴子は、瞳を輝かせる。

たしか晴子は、未婚のまま子どもを産み、子どもの父親からは月々の養育費だけもらっているはずだ。その金額は、わずか3万円程度。不本意なうえに、それもいつまで続くかわからないと以前ぼやいていた。

「うん、養育費算定表っていうものがあって、もらう側と払う側の年収のぶつかるところが基準額なんだって。ほら、見て」

楓は、家庭裁判所のサイトからダウンロードした表を晴子に見せた。

「これによると、私は仕事をしていないから、ここ。24〜26万ってあるでしょ?でもこれだけだと、全然足りないな…」

裁判所の表は、2,000万以上の所得者には対応されていない。

おそらく光朗の年収は、2,000万以上はあるはず。けれどこれ以上の養育費を希望する場合は、双方の話し合いで増額する必要があるのだ。

「花奈ちゃん、私立小に入れるためにお教室通ってるんでしょ?仕事を始めるとはいえ、もうちょっと欲しいところだよね」

「そうなんだよねー」

このままの金額では、もし私立に入ったとしても、授業料だけで養育費の半分以上が消えてしまいそうだ。

そのうえ、住む家や仕事を探さなくてはならないことなどを考えると、前途多難であることは間違いない。

「私立小のお受験は、花奈もお教室とか頑張ってるからやめさせたくはないけど…。お受験の面接って、両親揃っていることが前提みたいなところがあるから、難しいかもしれない」

調停は、数ヶ月では終わらない。そう真壁から聞いている。

養育費を取り決めたあとは、財産分与について話し合っていくことになるはずだが、楓が求める金額次第では難航し、より長引くことになるだろう。

「別居のままお受験を迎えちゃう可能性もあるし…」

「単身赴任で海外ですって言えばいいじゃん」

花奈のお受験をやめるか、続けるか。離婚問題が進むにつれて頭を悩ませていた楓は、晴子の妙案に思わず笑ってしまう。

「無理よ。花奈がうっかり喋っちゃう」

「確かに、子どもに嘘はつかせられないよね」

こうしておしゃべりしていると、調停のこともネタとして話すことができる。楓は少し気分が楽になるのだった。

「そろそろ水泳のお迎えなんじゃない?」と晴子が時間に気づく。

「ほんとだ。行かなくちゃ」

楓が立ちあがろうとした、その時だった。

不意にスマホが振動し、見知らぬ電話番号からの着信を告げた。

「あら?誰だろ。最近知らない番号からの電話、出るのが怖いんだよね…」

恐る恐る着信ボタンを押したところ…

「もしもし?」という聞いたことがない女性の声に、楓は一層警戒した。

「はい…」

返事をすると、相手は電話越しにテンション高く名乗ったのだった。

「私、松島さくらと申します」

聞いたことのない名前だが、楓もつられて「こんにちは…」と答えた。もしかしたら、何かの営業電話かもしれない。だったらさっさと切って、娘を迎えに行くのが正解だ。

しかし、「あの、今実は…」と楓が言いかけた時だ。

「お時間はとらせません。私、ご主人のことで…お話が」

切られると思ったのか、女性は早口だった。

だが、楓の方は驚きがそのまま顔に出でしまう。

「楓さん、どうしたの?」

晴子が心配そうに、小声で聞いてきた。

楓はじっと晴子の目を見つめたまま、息を呑んだ。

「失礼ですが、どちらさまですか?主人の仕事関係の方でしょうか?」

楓は冷静を装いながら答えた。

「仕事関係なんて、まさか!あの奥様にご連絡させていただくのは、私だって本当に勇気が必要だったんですよ」

松島は声色から想像する限りでは、飄々としているように感じる。

「あの、あなたは主人とどういうご関係の方なんですか?私、お会いしたことありませんよね?」

楓は相手の様子に少しムッとし、強めの口調で返した。

「もちろん、お会いしたことはありません。なので、一度お会いしてお話できないかという相談です」

しかし、直接会って話す、という松島の提案に、楓はすぐに返答できない。

「主人とどういう関係かわからない人とお会いして、何をお話すればいいんでしょう?

あの、私が躊躇する理由、わかります?」

すると、松島はなぜかクスクスと笑っている。

「なにがおかしいんですか?」

楓がムッとすると、松島からさらに思いもよらない答えが返ってきたのだった。

「奥様にこんなこというの失礼だと思うんですが。私、ご主人とお付き合いしていました」

「えっ?お付き合い?」

驚きすぎて、今度は声が裏返ってしまった。

1週間後の土曜日。

楓は花奈をスイミング教室に送ると、また先週と同じカフェに入った。

しかし、今日の相手は晴子ではなかった。

松島さくら。

光朗の元交際相手だというが…本当なのだろうか?

楓が指定した時間よりも前に、松島さくらは窓際の席に座って待っていた。

くるくるとストローをまわし、アイスカフェラテを飲みながら、こっちを見ている。ウェーブがかった長い髪を無造作にひとつに束ね、ノースリーブの黒いワンピースにロエベのマークのあるラフィアのバッグを携えていた。

間違いなく彼女だと、楓はすぐにわかった。

「お待たせしてすみません」

表情なく挨拶をすると、松島の方は妙に礼儀正しく椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

「お忙しいなか、わざわざありがとうございます。私、松島さくらと申しまして、普段は…」

さすがに面と向かって妻と対峙するのは、緊張するようで、松島の声はうわずって聞こえる。

「あの、私にご用って何かしら?」

彼女の自己紹介を、楓は遮った。のんびりお茶を楽しむつもりはない。さっさと話を聞いて終わりにしたかった。

だが、松島の方も、彼女なりの思惑があってこの場に来ている。

「私、奥様、いえ楓さんと呼ばせていただいてもいいですか?楓さんのお力になりたいんです」

「え?」

一瞬、楓は唖然となった。彼女の言っている意味がわからない。

しかしよくよく考えてみれば、「力になりたい」というからには、現在の楓の状況を熟知しているに違いなかった。

「つまりあなたは、私が今どういう状況下にあるか、ご存じってことよね?」

楓が確認すると、松島は「ええ、もちろん」と即答した。

「私は、1年前まで光朗さんとお付き合いしていました。つまり楓さんから見たら、元浮気相手、ということになります。

私は不本意な別れ方をしましたが…そういう意味では、私たち気が合うんじゃないかと」

そう言うと、松島は小さく笑った。

「気が合うかどうかは、なんとも言えないけど。主人に付き合っていた方がいたなんて、少しびっくりしました。

だって、家を出る前の主人は…」

ここまで言うと、楓の瞳にうっすらと涙が溢れてくる。

元浮気相手の前で醜態をさらすなんてありえない、と思っても、込み上げてくる気持ちは抑えようがなかった。

「ごめんなさい。私が知っていた主人って、ほんの表層の部分だけだったのね」

意図せず弱い部分を見せてしまうと、2人の間に流れる空気がゆるんだ。

「楓さんの力になりたいんです。私、あいつを懲らしめたいんです。協力しましょ?ね?」

松島が、今度は親しみやすい笑顔でにっこりと笑った。楓もつられて笑い返す。

だが、ひとつ確かめておかなくてはならないことがある。

「あの、ひとついい?なぜ、今私を助けようと思ったの?私の今の状況、わかってて来ているのよね?」

すると、松島は瞬時に真顔に戻り、じっと楓を見た。

「私、あいつに聞いたんです。妻と調停になったって」

調停になったと聞いたなら、光朗と会ったのは最近だろう。他に何か知っているかもしれない。

「そう…。なら話が早そうね」

そう答えながらも、さっきうっかり涙を見せてしまったのは失敗だったと、楓は内心激しく後悔していた。

なぜなら、この女が本当に自分の味方になるかなんて、わからない。

光朗だって、自分が知っていた人格はほんの一部だったのだ。

楓は松島に気づかれぬよう、テーブルの下でスマホのボイスレコーダーアプリを立ち上げ、録音ボタンを押した。

▶前回:エルメスのバッグも、カルティエの時計も封印。34歳セレブ妻が、全身1万円以下の服を着る理由

▶1話目はこちら:結婚5年。ある日突然、夫が突然家を出たワケ

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