ナポレオンが発した〈自由・平等・友愛〉の精神が世界中に派生…国家の独立が増える一方、陰りが見え始めたアジアの「栄華」【世界史】

産業革命後、貿易で独り勝ちだった中国は、連合王国によって密輸されたアヘンが原因で、国力を奪われていきます。また、インドもほぼすべて連合王国に掌握され、アジアは19世紀、それまでの栄華に翳りが見え始めます。一方で、ナポレオンが提唱した「国民国家」の概念は世界中に伝染し、独立国が次々と誕生。フランス革命が完遂され、いよいよ近代国家に近づく19世紀を、立命館アジア太平洋大学(APU) 学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より見ていきましょう。

ナポレオンの「感染力」は南アメリカに及ぶ

アメリカ大陸に目を転じます。

ナポレオンの影響で、米英戦争が起きて、アメリカが連合王国から経済的な独立も果たしたのでしたね。

南アメリカでも各国が独立していきます。スペイン領のベネズエラでは、シモン・ボリバルが独立を宣言します。ボリバルはヨーロッパでナポレオンの軍隊にいたことがあって、自由・平等・友愛に「感染」していました。アルゼンチン、チリ、メキシコ、ペルー、ブラジルも独立していきます。すべてナポレオンの影響です。

1823年には、アメリカがモンロー宣言を出します。アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の「相互不干渉」を主張した大統領の教書です。でも、本当のところは、ヨーロッパ諸国に「アメリカ大陸のことに口を出すなよ」といいたかったのです。その代わり、アメリカもヨーロッパのことには口を出しませんよ、というわけです。このあたりからアメリカは、南米も含めて新大陸の盟主は自分だという自負を見せるようになってきました。

中国がアヘンで貿易赤字に転じ、アジアはたそがれる

1827年、中国から銀の流出が始まります。中国が貿易赤字になったということです。理由は、東インド会社のアヘン貿易です。19世紀のアジアは、たそがれていきます。

それまで中国は超貿易黒字国でした。18世紀の間に、中国から連合王国へのお茶の輸出量は400倍になっていました。なぜかというと、産業革命後、工場労働者を長時間働かせるため、紅茶を飲ませていたからです。砂糖を入れた紅茶を与えると、気つけ薬のように労働者が即座に元気になりました。そのうち貴族にもアフタヌーン・ティーという習慣が生まれます。

お茶の代金は、国際通貨である銀で支払っていましたが、そのうち連合王国の銀が枯渇しました。そこで、こっそりアヘンを中国に輸出したのです。中国は何度もアヘン禁止令を出しましたが、麻薬であるアヘンの需要はどんどん増えていきました。それで中国から銀が流出するようになったのです。中国では税を銀で支払うので、銀が不足して高騰すると実質的な増税です。

たまりかねたの政府は、林則徐欽差大臣(特命大臣)に任命して広州に派遣しました。林則徐は広州に赴任するにあたって北京中の洋書を買い占めたそうです。そして陸路で広州に向かう長い道中、同行させた学者に買い占めた洋書に書いてあることを語り聞かせてもらいました。

広州に着いた林則徐は、道中で得た知識に基づき、アヘンを強制的に没収して化学処分しました。連合王国はびっくりしました。「こいつは今までの清の役人と違う。めちゃ賢い。えらいことや」と。そこで戦争を仕掛けました。アヘン戦争です。

連合王国は、林則徐が防御を固めた広州を避け、北京の外港、天津に向かって大砲を撃ち込みます。清の宮廷はびびって、林則徐をクビにしました。その結果、南京条約が結ばれ、アヘン戦争は終結しました。中国は連合王国に香港を割譲し、上海など5港を開港します。しかし、肝心のアヘンについては一切触れていませんでした。ということは、今まで通りにやっていいということで、中国はアヘンでガタガタになります。

林則徐は新疆に左遷されます。このとき、友人の魏源という学者に、北京で集めた洋書すべてと大金を渡します。「ここに書いてあることはめちゃ役に立ったから中国語に翻訳してくれ」と。めちゃ偉いですね。魏源という学者も偉くてほぼすべてを漢訳します。それが『海国図志』で、のちに日本の佐久間象山吉田松陰、そして幕末の志士たちが西洋のことを学ぶためにひもといた本です。

ガタガタになった中国では、1843年、洪秀全が自らをキリストの弟として「拝上帝会」という教団を結成します。さらに「太平天国」を建国し、清朝に反乱を起こしました。

南京条約で開港した上海に1845年、外国人の居住を認める租界が設定されます。ここから上海の発展が始まります。

この年、連合王国は、インド北西部のパンジャーブ地方で、シク教徒と開戦します。ここでも2回に分けて戦争して、その結果、インドのほぼすべてを占領することになります。17世紀に栄華を誇ったアジア4大帝国の一角であるインドのムガール朝も落日を迎え、アジアのたそがれはいよいよ深まっていきます。

ナポレオンが残した「はしか」が、ヨーロッパを席巻

ヨーロッパには、自由、平等、友愛というナポレオンの「はしか」が残っています。

その影響で、オスマン朝の支配下にあったギリシャが独立を宣言しました。古代文明発祥の地とあって、連合王国の詩人バイロンなど多くの市民が義勇軍として駆けつけます。エジプトと組んだオスマン朝はナヴァリノの海戦で連合王国とフランス、ロシアに敗れ、ギリシャが独立します。

イタリアでは「青年イタリア」という政治組織が結成されて、小国に分かれていたイタリアの統一を目指す機運が高まります。ドイツでも統一国家を目指す動きが始まります。リーダーとなったのはプロイセンで、ドイツ関税同盟が結ばれました。

南アフリカのケープ植民地は、ウィーン会議で、ネーデルラントから連合王国の手に渡っていましたね。現地には長年、血と汗を流して植民地を築いてきた、ネーデルラントからの入植者の子孫がいます。ボーア人と呼ばれたこの人たちは、ケープタウンを捨てて北上し、奥地へと大キャラバンで移動します。これをグレート・トレックと呼びます。

奥地にはズールー王国という先住民の王国がありました。ボーア人は「血の川の戦い」などをへて、トランスヴァール共和国オレンジ自由国をつくります。こうして、ボーア人は連合王国の家来になることを逃れ、自由になります。

1848年の革命で「ネーションステート」完成

フランスでは、1830年、七月革命が起きます。反動的なブルボン家の王様が追われ、オルレアン家の出身で「市民王」といわれたルイ・フィリップに王位が移ります。

フランスではその後、普通選挙を求める声が高まり、1848年に二月革命が起きます。これがすぐドイツ(プロイセン)とオーストリアに飛び火して、ベルリンとウィーンで三月革命が起きます。「諸国民の春」といわれる1848年の革命です。この年には、マルクスが『共産党宣言』を出しています。

1848年の革命で、ヨーロッパが再び、燃え上がります。オーストリアの支配下にあったハンガリーでは、コシュートが独立宣言をします。オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ロシア軍を引き入れてハンガリーの独立運動を鎮圧しました。20世紀のハンガリー動乱プラハの春を思い出しますね。

この革命で、フランス革命が最終的に完成しました。ネーションステートの成立です。フランスの王政が終焉を迎え、第2共和政が成立。世界初の男子普通選挙が実施されました。

マリー・ルイーズのその後に見るメッテルニヒの小細工のうまさ

ナポレオン一族のその後です。

ナポレオンと、オーストリア皇女のマリー・ルイーズの間には、皇太子のナポレオン2世がいましたね。ナポレオン2世は、母方の祖父フランツ1世がいるウィーンの宮廷に引き取られます。フランツ1世は、孫のナポレオン2世を大事に育てますが、ナポレオンの悪口をたくさんいい聞かせます。

マリー・ルイーズは平凡なお嬢さんで、ナポレオン2世をかわいがっていましたが、オーストリアの宰相メッテルニヒは、2人を引き離し、お母さんを、イタリアのパルマの統治者に任命します。しかも、最高のプレーボーイを部下につけます。その部下に飴玉を飲まされ、案の定、お母さんはナポレオン2世のもとには帰りません。メッテルニヒは大局観こそ持ちませんでしたが、こういう小細工はものすごくうまい人でした。

ナポレオン2世のもとには、フランスからいろんな人がこっそりとやってきて、父ナポレオン1世の偉大さを教えます。ナポレオン2世は父の跡を継ごうと決心しました。そして一所懸命、軍事教練をやるうちに病気になって早世しました。

矛盾に満ちたナポレオン3世、選挙で選ばれて皇帝に

ナポレオンの弟は、ネーデルラントの国王になったのでしたね。その子どもが、ルイ・ナポレオンです。夢想家で、何回もフランスでクーデターを起こそうとしては逮捕されていました。不思議な人で、サン・シモンが唱えた社会主義と帝政を同時に信奉していました。矛盾していますが、平気だったんですね。また異常なほど女性が好きでした。

ルイ・ナポレオンはフランスを追われて、ロンドンで亡命生活を送っていました。けれど、フランスで第2共和政が成立するとロンドンから戻ってきて、大統領選に立候補します。そして選ばれてしまいます。ナポレオンの名前はやはり強い。フランス国民は、偉大なナポレオン1世のことを忘れてはいなかったのです。その後、ルイ・ナポレオンはクーデターを起こし、ナポレオン3世となります。第2帝政です。

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU)
学長特命補佐

© 株式会社幻冬舎ゴールドオンライン