「やっぱり本物のジョイスさんがいいね」に安堵したビルボードライブ東京の夜(松尾潔)

ジョイス・ライスさんと筆者(提供写真)

【松尾潔のメロウな木曜日】#86

前回に続き、六本木・東京ミッドタウンのクラブ&レストラン〈ビルボードライブ東京〉での話。さる5月19日(日)、ジョイス・ライスのライブが行われた。彼女はアフリカンアメリカンの父と日本人の母を持ち、LAを拠点に活動する見目麗しきR&Bシンガー。学生時代に動画サイトでカバー曲を次々に公開してデビューのチャンスを掴んだ。自作曲を美声で歌い、情熱的に踊る。注目されないはずがない。

2016年5月にリリースされた『Stay Around』は、LAの気鋭のクリエイターたちの協力を得て完成した作品集だった。すぐに気に入ったぼくは、7月にNHK-FM「松尾潔のメロウな夜」で紹介した。以来、彼女はぼくのお気に入りアーティストとして、新譜が出るたびほぼオンエアしてきた。

番組の年間ランキングでも上位に位置するようになった頃だろうか、ぼくのSNSにジョイス本人からメッセージが届く。贔屓にしていることをどこかで知り、シンプルな日本語で謝辞を送ってきたのだ。これがきっかけでメッセージをやりとりするようになった。親密の度合いがぐっと深まったのは、初めてのフルアルバムを引っ提げて初単独来日ライブをはたした一昨年あたり。彼女とお母様をぼくの自宅に招いた。それからは私用で来日したときも会って食事をするような関係である。

90年代生まれのジョイスが初めて夢中になったアーティストは、今春のスーパーボウル・ハーフタイムショウでの千両役者ぶりも記憶に新しいアッシャー。と書きつつ、どれだけの読者にご理解いただけるか心もとないが、アメリカR&Bシーンの頂点であり、マイケル・ジャクソン~マーヴィン・ゲイ的存在です。ジョイスが人生で最初に手に入れたCDは、そんなアッシャーの2001年の『8701』だそう。同作収録のグラミー賞受賞曲「U Remind Me」の日本リミックスを手掛けていたぼくとしては、それだけでもジョイスとの音楽的な縁を感じずにはいられない。だから、今回の再来日公演にあたり彼女からコラボを持ちかけられてもさほど驚かなかった。ついにその時が来たかという感慨のほうが大きかった。

こうして、2016年に初めてラジオでかけた彼女の曲「Do You Love Me」の日本語詞バージョンを作ることに。原曲の英語詞を細かく分析してすべての母音を拾うところから始めるのがぼくの訳詞法。英語の音韻だからこそ生まれたグルーブを、日本語でいかに再現できるかが腕の見せどころ。これを書きあげたら、ジョイスからネットで送ってもらったカラオケに仮歌をのせて返送する。ほんの数年前までは〈仮歌さん〉選びに結構な時間を費やすのが当たり前だったが、今ぼくはもっぱら歌声合成ソフトウェア頼みである。人間らしくリアルな声での歌唱が可能な、最新のAI技術で開発されたソフトに「歌わせる」のだ。驚く方もいるだろうが、日本の音楽制作者の間で最早このやり方は珍しくもない。

NHK紅白歌合戦で歌う〈AI美空ひばり〉に賛否両論が巻き起こったのは、コロナ禍直前の2019年末。あれから4年半、あのAIひばりより格段に自然な声の響きで歌もうまいソフトが、今なら1万円ちょっとで買えます。どれほど歌がうまいかというと、〈仮歌さん〉の素性を知らなかったジョイスが、ライブ当日にぼくから真相を聞かされた瞬間、驚いて白目をむいたほど。「どんな人が歌っているの?」と訊かれるたびに、東京で会わせてあげるよと、ぼくははぐらかし続けてきたのだった。彼女は日本語歌詞を憶えるために、デモを聴き込むのに加えて何度も書き取りをくり返していたそう。そこまで耳に馴染んだ歌声の主がAIだと知ったら、そりゃ驚くよなぁ。ぼくのささやかな〈ドッキリ〉は成功したというわけである。ジョイスは「テクノロジー!」と叫んで笑った。

先日、酒場で会った音楽とは無縁の御仁にこの歌声合成ソフトの話をしたら「冷凍食品の加工技術は日進月歩、みたいなもんですか」と忌憚のない感想を聞かせてくれた。返答に詰まっていると、御仁は「失礼なたとえでしたか」と申し訳なさそうな表情をみせる。いや、そうではなくて、と返したぼくは、目の前にあった乾き物を指して言った。いちどビーフジャーキーにした牛肉を生に戻す、くらいの試みです。「そんなもの、おいしく食べられますか?」さあ、どうでしょう。ぼくがお茶を濁したところで話題が変わった。

さて、その日2回行われたジョイスのライブは大盛況だった。「ジョイスさんなら」と父親の関わる仕事をめずらしく観に来たぼくの子どもは、自宅で父親が聴く〈AI仮歌さん〉のデモに耳が慣れている。そんな子たちが「やっぱり本物のジョイスさんがいいね」と満足げなのに深い安堵を覚えたぼくである。

(松尾潔/音楽プロデューサー)

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