【対談連載】BCN創業者 奥田喜久男(上)

【奈良発】私がBCNの社長に就任して2年。そして、この「千人回峰」のインタビュアーを任されて1年が経った。創業者の奥田喜久男は今年1月に会長職を辞し、本格的な隠居生活に突入した。でも、まだ聞いておきたいことはいろいろとある。なぜ、大きなリスクをとってまで独立起業の道を歩むというモチベーションを抱いたのか。どのようにして仕事仲間や従業員を巻き込み、事業として成立させたのか……。もちろん、そうした話はこれまでも聞いてきたが、以前から約束をしていたこの対談の機会に、改めてしっかりと聞き直し、ここに記したいと思う。

(本紙主幹・奥田芳恵)

2024. 5.9/奈良県奈良市の奈良ホテルにて

経営から退いて初めて知った

清々しい「やり切った感」

芳恵

この「千人回峰」の連載ですが、今回は350人目の節目です。そこで、創業者として考えて実践してきたことや「千人回峰」への思いを改めて聞けたらと思っています。

喜久男

ほう、350人目か。感慨深いね。あなたにこの連載のインタビューを任せるようになってもう1年。いまは一読者として読ませてもらっていますよ。

芳恵

今年1月に会長を退任して、いまはどのような心境ですか。40年以上携わってきた経営から離れるというのは、やはり寂しいものなのでは?

喜久男

いや、全然。むしろ「やり切った感」が全身を覆うような爽快な気分だね。寒い朝に低山に登り、その寒さに身震いしながらも凛とした気持ちになり、頭の中もクリアになって360度視界が広がるような空気感といったらいいのかな。

会長を退任したのは今年だけれど、2年前にあなたに社長職を譲り、その年(2022年)の大晦日に「もう何もやらない」と決意したとき、それまでに経験したことのないスッキリとした気持ちになれた。いい意味で、ぷつんと切れたんだね。

芳恵

創業者なのに、そんなに清々しく割り切れるものですか。

喜久男

周囲の人からは「経営に口出ししたいでしょう」と言われるけれど、こだわりも欲もなくなったいま、そういう気にはならないね。たしかに、創業者にとって会社は自分の身体の一部のようなものだから、それをもぎとられることはつらいことかもしれない。だからこんな気持ちになるとは思わなかったんだけど、悩みや我欲から解放されたことは、創業してから得た一番の宝だと思っているね。

芳恵

その「やり切った感」というのは、大きな仕事を成し遂げたときの達成感とは違うのですか?

喜久男

仕事の達成感とは異なる「すべてをやり終えた」という感覚だね。こだわりも欲もなくなったと言ったけど、誇りを持つという感覚もなくなった。誇りを持つということは、裏返せば欲があるということだからね。だから、自我が芽生える前の子どものようにシンプルな人間に戻ったような感覚なんだ。

芳恵

うーん、だんだん人間の根源に関わるような哲学的な話になってきましたね。

練り上げた事業計画書になかった収支計画の記述

芳恵

BCNの創業は1981年8月なので、そろそろ満43年。それまで勤めていた電波新聞社を辞めて起業に踏み切ったわけですが、それは、起業しなければやりたいことを成し遂げられないと思ったからなのでしょうか。

喜久男

そうだね。日本のコンピューター産業の歴史を残すためには、専門の業界新聞社をつくってやるしかないと思ったんだ。自分一人でライターとして活動したとしても、病気になったりすれば情報発信することはできなくなる。だから仲間を募って、組織としてこの仕事に取り組むべきだと考えた。もちろんお金は大切だけど、お金を稼ぐために創業したのではなく、自分の書きたいことを書くためにBCNという会社をつくったわけ。

芳恵

日本のコンピューター産業をテーマとしたことには、どんな理由があったのですか。

喜久男

戦後日本の産業は、繊維、自動車、家電というように、ほぼ30年のサイクルでその主役が交代してきた。そして、コンピューターの時代が到来し、メインフレームなどの大型汎用機はほとんど外資系メーカーで占められていたけれど、コンピューターのダウンサイジングが進むと、日本製のマイコン、つまりいまのパソコンが登場してきた。

芳恵

1980年前後の話ですね。

喜久男

このタイミングで、この産業の成長の軌跡を記す人になりたいと強く思うようになり、BCN創業の1年前から事業計画を練り始めた。笑われるかもしれないけれど、『史記』を著した司馬遷のような仕事をしたいと思った。

そのために『ASCII』や『月刊マイコン』『I/O』といった雑誌を読み込んでテーマ別に分類し、全体の流れを俯瞰して理解できるようにするとともに、これらの雑誌とは異なる視点、編集方針で新聞をつくっていこうと考えた。

芳恵

BCNの創業は、コンピューター業界の黎明期に重なったのですね。

喜久男

そうだね。それで、練り上げた事業計画書を、当時、内田洋行でオフィスコンピューター事業部のトップを務め、後に社長となった久田仁さんに見てもらったんだ。すると「いいね、いいね」と褒めてくれたんだけど、「でも奥ちゃん、お金の収支計画が何もないよ」と指摘されてしまった。だから、夜も寝ないでアルバイト原稿をせっせと書いて、その原稿料を新聞を発行するための資金に充てたんだ。酒代にもなったけどね(笑)。

芳恵 若さゆえのミスを、熱意でカバーしたという勢いは伝わってきます。ところで他のコンピューター雑誌と異なる視点というのは、どういうものだったのでしょうか。

喜久男

製品の機能紹介が中心の雑誌、製品の使い方の解説が中心の雑誌と、そのスタンスはいろいろだったけど、私はコンピューターの流通ルートがとても重要だと考え、47都道府県の販売代理店を取材して回った。それがBCNが世の中から評価される裏付けになり、私たちのコンセプトである「流通を制する者が市場を制する」につながっていった。

芳恵

創業時の資金繰りは当然忙しかったと思いますが、そのほかにどんな苦労がありましたか。

喜久男

経営は「ヒト・モノ・カネ」とよく言われるけれど、やはり「ヒト」の部分はドロドロで、最初の10年はつらかったね。

それで、創業して3年ほど経ったとき、ある表をつくったんだ。縦軸に社員の名前、横軸に時間をとり、ある社員が辞めたら、会社にどんなことが起こった、どんな影響を与えたということを記録した。

芳恵

そこから見えてくるものはありましたか。

喜久男

うっすらと見えてきたのは、人を集めて行っていく会社経営の法則のようなものだった。事前にそうしたことを学んでいなかったため、いきなりOJTを受けたようなものだったが、ともかく最初の10年間は最大の苦労をしたと思うし、その10年間の苦労が自分をつくってくれたように思う。後に「苦労は肥し」と思えるようになったが、経営者というものは修行僧のようなところがあると思ったね。

芳恵

まさに「千人回峰」というネーミングのもととなった「千日回峰行」に通じるところがありますね。(つづく)

かわいくてしょうがない孫

4歳になる女の子。写真共有アプリにアップロードされる写真を随時チェックして、成長を楽しんでいるそう。こんなに孫娘をかわいいと思うなんて、自分でも想像できなかったと目を細める。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第350回(上)>

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