【桟原将司連載#11】首脳陣や先輩にも平気で反論「上から投げ直せ」即答で「嫌です」

阪神で相手打者を翻弄したサイドスローは新日鐵広畑時代に構築された

【桟原将司 ハナの剛腕道中(11)】社会人野球の新日鐵広畑の一員となって2シーズン。僕は都市対抗の予選で2試合に投げただけという、ほぼ実績のない投手のままでいました。このころはプロという道を明確にイメージすることはできませんでした。

ところがです。3年目は実質的にエースとして登板していた5歳年上の先輩が退部。その時点で僕がエースという立ち位置で登板することになりました。実際、3年目は都市対抗にも出場して主戦投手としてマウンドに立っている自分がいました。

この連載の1回目で社会人3年目から阪神入団1年目、2年目(リーグ優勝)の3年間が僕の人生を変えてくれたとお話ししましたが、それ以前はプロにドラフトされる実績が何もなかったので、人生とは不思議なものです。

意識したわけではなくこれまでの経験がうまく合致していくわけですが、振り返ればプロに至るまでのフォームが出来上がるルーツになるものは高校2年生の時につかんだと思っています。

当時の僕は試合中に肩を痛めてしまって、チームも投手が手薄で、それでも投げないと仕方がない状況。投げながら肩が痛くない投げ方を自然に探していたんでしょう。

自分ではしっかりオーバースローで投げていたつもりだったんです。でも、高校時代のビデオを見返すと腕を下げて横から投げているわけです。

僕自身はそのフォームの変遷に気付けてはいませんでした。ただ、社会人時代にも肩が痛くても投げなくてはいけない状況があり、そこで高校時代の経験が生きてしまったわけです。

肩が痛くても監督が見ている前でのピッチング練習はちゃんとやらねばいかんわけです。これからも試合で使ってもらうためにはね。そこで意図的に腕を下げて投げたんですよ。高校時代のことを思い出してね。

そこからはプロで皆さんに見てもらっていた投げ方に変わっていました。社会人3年目で都市対抗出場が決まったとき、決起集会があったんです。みんなで焼き肉です。その日、実は監督に呼ばれて「お前、都市対抗の時、もう一回上から投げ直せ」と言われたんですね。もちろん「嫌です」って即答で断りました。

あのころの僕はエースだと自分でも思っていたので調子に乗っていたんでしょうね。首脳陣や先輩にも平気で反論していました。それは置いておいても腕を下げることで球速も上がって、制球力も改善されているのになぜフォームを変える必要があるんですかと拒否です。

インステップするクセも少し修正しろと言われましたが、それも嫌ですって断りました。スライダーが武器だった僕はインステップすることにより右打者に圧をかけることができます。

ただその分、体を余計に回転しなきゃならないので負担もかかりますが。どうにかたどり着いた自分の投球フォームから繰り出すボールを武器に僕は社会人最後のシーズンで夢をつかみ取ることになります。

© 株式会社東京スポーツ新聞社