孤高の先駆者、溝口和洋さん「やり投げを好きと感じたことはない」 パリ五輪へ北口榛花は世界記録も目指せる「才能」

1988年ソウル五輪陸上男子やり投げで投てきする溝口和洋さん(共同)

 陸上のやり投げが今、かつてないほどに注目を集めている。昨年の世界選手権で北口榛花(26)=JAL=がこの種目で日本勢初制覇を果たし、今夏のパリ五輪も金メダル最有力候補に挙がる。一方で、男子は独自の理論と徹底した肉体改造で孤高の先駆者となった溝口和洋さん(62)が持つ日本記録が35年近く更新されていない。同じ投てき選手として陸上男子ハンマー投げの五輪金メダリストでスポーツ庁長官の「鉄人」室伏広治さん(49)も指導を仰いだ存在。地元の和歌山県白浜町でトルコキキョウの栽培など農業を営む溝口さんは今、何を思うのか―。インタビューで心境に迫った。(聞き手 共同通信・山本駿、田村崇仁)

 ▽北口の動きとしなりは「理想的」

 南紀白浜空港から車で約15分。溝口さんの自宅に到着すると、家の前の作業場へと案内された。ビール瓶のケースを椅子代わりに、まずは67メートル38の日本記録を持つ北口のことを語ってもらった。

67㍍38の日本新記録で優勝し、電光掲示板の前で喜ぶ女子やり投げの北口榛花=2023年9月8日、ブリュッセル(ロイター=共同)

 「立派なもんですよね。もっと頑張れば、(72メートル28の)世界記録も目指せると思っている。今まで選手を見てきた中では、ものすごい才能で投げている。高校の時に和歌山で初めて見た。当時からこんな子がいるのかと、驚いた。他の子とは違った。投てきはフィジカル、体がものすごく大事だが、日本人らしからぬ体格の持ち主で、持っているものがすごいと思った」
 「胸からの動きが理想的。胸を使わずに上だけで腕を振る子が多い。でも北口はバトミントンと水泳もやっていたからか、肩甲骨が上がって、そこからしなっていく。それを何も考えずにできている。腕だけで投げるよりも、最初から3~4メートルは違うんじゃないか」

ブリュッセルで行われた陸上の国際大会女子やり投げで優勝した北口榛花=ブリュッセル、2023年9月8日(ゲッティ=共同)

 「結局、自分が一番大事にしていたのは振り切り。最後に肩が入って、肘が入って、手からやりが離れる感覚は毎回大事にしていた。選手の時は、その感覚をずっと追い求めていた」
 北口の「才能」を感じるからこそ、言葉に熱がこもった。

 ▽世界記録にあと6センチ

 溝口さん自身、現役時代は尋常ではないほどのトレーニングに明け暮れ、1989年5月には米カリフォルニア州サンノゼで行われた国際グランプリ(GP)シリーズでヤン・ゼレズニーが持つ当時の世界記録にあと6センチに迫った。その87メートル60が今なお残る日本記録だ。最初の計測は「87メートル68」とコールされ、世界新記録と思いきや、まさかの計り直しで世界歴代2位となった経緯もある。

陸上の日本選手権男子やり投げで優勝した溝口和洋さん=1994年6月、国立競技場

 「競技を始めてから、記録を自分の限界まで伸ばしたいとしか思っていなかった。ただ、なぜあそこまで固執したのかは、自分ではよう分からん。大学に入った時は親にお金を使ってもらうんやから、やり投げぐらいは必死に頑張ろうというところから始まった」
 「初めて出た(1984年)ロサンゼルス五輪でえらい失敗(予選落ち)をして、すごく悔しかった。『次のソウル五輪こそは』という思いで、4年で全てをやろうと思った。だから練習量が普通の人より3倍ぐらいになった。普通ではなかった。でもやり投げを好きと感じたことはないんよ。義務みたいな感じ。やらないと生きている価値はないと思った。俺ら競技者は現役が終わってから後の人生は、そこまで燃えることはない。だから『今しかない』と思ってやっていた。今思い返しても一切後悔はない」

 ▽指導に携わるも名声や称賛は不要

 今は指導にも携わっている。ただ、選手を取材していても「溝口さんから教わっている」と聞いたことはない。
 「それぞれコーチがいるから『絶対に言うな』と言っている。『おまえらに有名にしてもらわんでいい』と。もう十分名前は通っとる。自分はもう現役じゃないから、指導者の名声や称賛はいらない。選手が伸びればそれでいい」
 「今一番悪いのが、ネットが普及して、世界中の投げを簡単に見られる。それを高校の指導者が見て教える。それが一番良くない。基礎が全くできないまま、変な癖がつく。それはもったいない。体自体は僕らの時よりみんな大きくなっているからね。やりの性能も上がっているし、俺の記録なんてもう抜かないといけない。今は基礎ができてない選手が多いから、それを何とかしたいという思いがある」

 ▽マスターズ大会で世界記録の夢も

インタビューに答える陸上男子やり投げの日本記録保持者、溝口和洋さん=和歌山県白浜町

 作業場の後ろにはウエートトレーニング器具がある。今でもトレーニングは続けているのか。
 「3年前に少し歩けないようになった。腰の筋肉が落ちて神経を刺激したのか、びりびりとなって20分ぐらい立てなかった。これはやばいぞと思い、スクワットだけはしようと。そこからいろんなことをやり出したら、体が強くなった。ベンチプレスもこの前130キロが上がった」
 「最近教えるついでに、自分でやりを手に取るようにもなった。体はまだ感覚を覚えているし、マスターズの大会に出ようと思っている。60~64歳の部で、世界記録(62メートル47)更新を35年越しに成し遂げたい。出るなら70メートルぐらいまでは狙いたい。北口に負けてはいられない」

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