プリンスの圧倒的な愛に涙が止まらない!『プリンス ビューティフル・ストレンジ』

It's been 8 years and 1 month, few days……プリンスが亡くなってはや8年。命日の4月21日から誕生日の6月7日までの間は毎年"セレブレーション期間"の様相で世界中でさまざまな催しが行われます。

今年は誕生日に、我々ファム(プリンスがつくったファン+ファミリーの意)に素敵なプレゼントが。プリンスのドキュメンタリー映画『プリンス ビューティフル・ストレンジ』が世界に先駆け日本の劇場で公開されるのです! これからファンになるであろう、ビギナーにも良い入門編かもしれない。とにかく、こうしてまたプリンスのことを語れる幸せ。(絵と文:ラジカル鈴木)

プリンスの生涯への旅

『プリンス ビューティフル・ストレンジ』の原題は“Mr. Nelson On The North Side”「ノースサイド(北側)のミスター・ネルソン」。プリンスの本名はプリンス・ロジャース・ネルソン。どこの北側かは、プリンスの地元ミネアポリス。

冒頭に示されますが、現在オフィシャルに著作物を管理しているエステートはこの映画に関わっていないとのこと。一般にあまり知られていないであろう“生の人間プリンス”を知って欲しい! という、マニアが創った手作り感。権利等を超えて、よくぞこのヒトに聴きに行ってくれた! と感心する貴重な話ばかり。オフシャルのコントロール下では難しかったんじゃないでしょうか。ゆえに完成・公開まで大変な苦労があったらしく、製作者、関係者の情熱に大リスペクトです。

不毛な地に、なぜ天才が?

僕が知りたかった2つの謎。1つは、若く貧しかったスキッパー(子供のときのプリンスのあだ名)が、いかに天才であっても、独りでどうやって音楽のすべてを学び、演奏の腕を磨いたのか?

文化的に何も無かった不毛の地ミネアポリスに、複雑な家庭環境で愛情に恵まれず育ちながら、突然変異的に現れた宇宙人のようにイメージしている人もまだ多いかもしれない。実はそうではなかったんですね。彼もヒトの子、生きていくには当然、愛も水も必要。ミネアポリスには黒人が10%しかいないっていうのも強調され過ぎてきたが、ノースサイドにはちょっとしたブラックコミュニティがあり、マイノリティ同士の結束は固く、プリンスはその中で育つ。

謎2つ目は、なぜプリンスはミネアポリスにあんなに執着していたのか? 彼が生涯居続け、多額の寄付をしたり、チャリティを開催したり、膨大な貢献したのは知られている。LAとかスペインとかカナダに家があり、世界中でツアーやレコーディングしたけど、自前のスタジオがあるミネアポリスの家に必ず帰った。

僕もペイズリー・パーク・スタジオ及び中心街を見たけど、車がないと絶対に暮らせない超不便な田舎、小じんまりした街を出ると豊かな自然以外何にもな~い。冬は超過酷な寒さ。同郷のロバート・ジマーマン(ボブ・ディラン)はさっさと後にして二度と戻らなかった。ここにこだわるのは、成功の足かせではなかったのか?

故郷に居続けたわけ

青年期はバスケットボールで挫折もしたが、実はかなり充実していたんだ、ということが証言を聞いていくとわかる。音楽を自由にプレイ出来る環境が、彼のすべてを好転させ、生き甲斐を見つけたのだ。

子供たちにチャンスを与えようとコミュニティー・センターを立ち上げた人物と、周辺のインタビューがメディアに取り上げられるのはほとんど初めて? 彼は、のちにミネアポリスが流行の震源地、音楽の都“ミニーウッド"へと発展する下地を作り場所を用意し、楽器を無料で使わせ、指導をした人。学生だったプリンスや親友アンドレ・シモーン、モリス・デイらもここで上達していった。そして、初のブラック・ミュージック専門のラジオ局も出来る。

プリンスが通ったハイスクールの音楽の先生、バンド活動の仲間、先輩プロミュージシャンたちの、当時の彼を取り巻く環境についての証言。のちのプリンスのバンドNPGのベーシスト、ソニー・Tは、音楽仲間でバンマス、アニキ的存在であり、テクニックのお手本だった。雑誌で読んだけどソニー曰く「彼は俺をまた誘ってくれるって思ってたよ」その通りに、スーパースターになってからプリンスはソニーをバンドに引き入れた。借りを返すと共に、まだ教わりたいこともあったのだろう。音楽が結びつけた恩人、友人、ケアし成長させてくれた人たちの住むこの地、地域そのものに恩返しがしたかったんです。自分が施されたような恵みや教育を、後に引き継いで発展させたかったのですね。

すべての"クリエイター"必見

プリンスにとって憧れのディーバ、楽曲を提供したり共演も多いソウルメイト、チャカ・カーンの証言が圧倒的に面白い。10代のプリンスは、チャカがボーカルだったバンド、ザ・ルーファスに夢中だったが、無名時代にもこんな"プリンスらしい"エピソードがあったなんて! 有名になる前からトリッキーな奴だったんだな~!! (何があったのかは観てのお楽しみ)

彼にをリスペクトする先輩、多大な影響を受けた後輩ミュージシャン、評論家や記者、スタッフ、有名無名のジャンルを超えた人たちが次々証言。僕は音楽以外の画家などのアーティストの話が特に興味深かった。プリンスは分け隔てなく好きなものは好きと垣根を作らず交流していたんだなあ。世界中の才能ある人達をサポートし、トータルで"アートの大使"だったことがわかる。

ネットも普及してきてSNSでダイレクトに交流したファムの証言、彼のスタジオ、ペイズリーパークで突発的に開かれたパーティーや、誕生日近辺に開催したプリンス・セレブレ-ションと呼ばれたイベント参加者の話。僕も2002年にそのいわゆる"セレブ"に7日間参戦、毎晩セットリストの違うプリンスのライブを観て、目の前で自由に歩く彼を目撃、夢のような1週間を体験したので、あの興奮がよみがえる。

He is still Alive, C U Screen !!!

57年という時間、神様が僕らによこしてくれた創造と"ポジティブ・ライフ"の伝道師は、もう居ない。世界を引っ張ってくれる才能を失った悔しさ、寂しさ。 それ以上に、彼が放っていた他者や弱者に対する途方もなく大きな愛、友情、慈愛、無償の愛、圧倒的な神様のような愛、これらをラストで紫の雨に打たれるが如くモロに浴びてしまい、観終わってから涙が止まらなかった。

これが創造し続けるパッションの源泉だったのか。「シナモン・ガール」で9.11以降のイスラム系への偏見を憂いたように、もしコロナ以降だったら、アジア系を心配してくれる曲を書いてくれたんじゃないかなあ。とか妄想したり……。

プリンスのいないこの世界でもがいていますが、負けません。Love is God, God is Love, 彼はまだ我々のここ(Heart & Mind) に居る、体感しに劇場にLet's Go~~!!!

ラジカル鈴木 プロフィール

イラストレーター。映画好きが高じて、絵つきのコラム執筆を複数媒体で続けている。

© 株式会社シネマトゥデイ