『関心領域』アカデミー賞音響賞受賞作を録音技師・根本飛鳥はどう聴いたのか⁉︎【CINEMORE ACADEMY Vol.31】

第二次世界大戦中の1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。第96回アカデミー賞の国際長編映画賞と音響賞を受賞した映画『関心領域』(23)、数多くの作品で録音技師として活躍する根本飛鳥さんはどう聴いた(観た)のか? 根本さんならでは視点による『関心領域』レビューです。

※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。

私は映画音響に従事する人間として、「聞く」と「聴く」は決定的に違い、映画音響表現とは観客が受動的に「聞き」、私たち作り手のアプローチにより能動的に「聴かせる」ことなのだと常に考えてきました。私は職業病的に、空間の音を頭の中で細分化して個別に聴いてしまう癖がありますが、例えばこの文章を打ち始めた下北沢の喫茶店では、素敵なジャズが流れ、厨房からはパスタを振るうフライパンの音、少しうるさい換気扇、そして私の隣には下を向いて言葉を発しない女性と彼女にひたすら無機質な言葉を浴びせる男性がいます。普段は日常のノイズに紛れるその言葉たちも、今の自分の耳は完全に「聴く」耳になってしまい、無論この文章を打つ手は一向に進みません。映画で観客をこの状態にできたら私たち映画屋の勝ちです(この文章を書かなければならない今の状況的には負けですが)。

カメラには画角と焦点(フォーカス)の表現があるように、映画音響にも空間(リバーブ)と焦点(意図的に聴かせる音)があります。難儀なのが、普段はそれらを非常に「さりげなく」行うことを求められること。台詞は聞こえて当たり前、効果音、音楽のバランスは違和感なくて当たり前。前に出過ぎることなく、作品の根幹を支えていくのが我々映画音屋の仕事なのです。

そんなある日ライターのSYOさんから「根本さんに観てもらいたい作品があります」とご連絡いただき、ノコノコ試写室に伺ったが最後。『関心領域』は、私の襟首を掴み顔の目の前で自分たちの言葉を聴くことを強制するかの様ように、強烈な音響と映画表現でスクリーンから問いかけてきました。前述した、普段の自分がルールとしている「さり気なさ」ゼロ! 映画が始まって3分間ぐらいは真っ暗な画面で変な音が流れてくるし、全体的に高域が強調されたキンキンした音作りは聴いていてとても疲れました。そして、異常なレベル(音量)で突入してくる不協和音みたいな劇伴と、全ての直接的な描写を撤廃し音によって語りかけてくるこの作品に完全に打ちのめされてしまいました。当時、アウシュビッツでユダヤ人を「強制的に」労働させたように、この作品は学のない私の知識で語られることを拒否し、帰り道に「強制的に」今作の主人公ルドルフ・ヘスの手記を私に購入させました。その後私はもう一度鑑賞したい旨をSYOさんに伝え、ヘスの手記を読みながら2回目のスクリーニングに備えたのでした。

ヘスの手記を読み終えてからの2度目の鑑賞は、私にとって地獄の「志村うしろ!うしろ!」状態であった。1度目の鑑賞で気付かなかった作品の暴力性、史実的意味、特に音響面に張り巡らされた細かな「居心地の悪さ」のギミックに気付いたからです。この作品の音響は、鬱屈と日々を過ごす主人公ヘスの内面を暗示するかのように設計されています。ヘスは僕たちと何も変わらない普通の人間として描かれており、自分の生活、家族を守るために日々仕事に奮闘しています。その自分の職務の裏で、何百、何千、何万という人間の命が消えていく事実を見て見ぬふりをしながら、「仕事なのだ」と自分を律して日々を過ごしている。このヘスの泥のような感情を表すかのように、家やその周りでのシーンほぼ全ての背景音に低い低音のうねりのような音が足されています。唯一その低音が消えるのが川のシーンですが、そこで何が起きたかは是非鑑賞して確かめてください。一見幸せな家族、綺麗な家、素敵な庭、しかしヘスにとっては逃げ場のない空間であったことが表現されているのではないでしょうか。その証拠に、作品後半でヘスの勤務地がアウシュビッツから離れると、綺麗さっぱりこの低音は聴こえなくなります。『関心領域』は、第三者的な目線を徹底したカメラの画角とそれに合わせた遠めのセリフ、そこに付く不自然なほどに大きなバッククラウンドノイズと突如突入してくる不協和音のような音楽で、明確に「見にくく作られた」作品です。ただその「見にくさ」は、観客の「関心領域」次第というのが恐ろしい。

『関心領域』©Two Wolves Films Limited, Extreme Emotions BIS Limited, Soft Money LLC and Channel Four Television Corporation 2023. All Rights Reserved.

作品との出会いは人との出会いにとてもよく似ています。2時間前後の時間を通して相手を理解し、興味を持ち、新しい知見を受け取り、その人(作品)と出会う前後で自分の行動が変わったり、景色の見え方が違うような、そんな体験こそが真の映画鑑賞なのだと僕は信じています。その点で『関心領域』は、とても映画的な劇場体験をさせてくれるはずです。私と同じく、自分の知見の浅さ故、学び、調べ、また劇場に足を運ぶ人が多いことでしょう。「アウシュビッツはガス室でユダヤ人を大量に虐殺していた場所」。もちろん、この基本的な知識が入っていない状態でこの作品を鑑賞することはおすすめできませんし、全く前情報を持たずに今作を鑑賞すると訳が分からない部分も多いと思います。ただ、そこから知れば知るほど、あの壁が、あの服が、あの川に流れていたものが、子供が遊んでいたあの道具が、何だったのかを理解した時に、私たちの「関心領域」が広がり、それが映画鑑賞という体験に昇華される。それが、本作の製作者達の願いなのではないでしょうか。

監督のジョナサン・グレイザーは先日の米アカデミー賞授賞式で、「私たちの選択はすべて、現在の私たちを映し出し、私たちと向き合うためのものだった。昔の人たちが当時何をしたか見てくれというのではなく、今の自分たちが今何をするか、見るよう求めるものだ」と述べました。『関心領域』はグレイザーからの現代人に対するルドヴィコ療法*なのではないでしょうか。

*)『時計じかけのオレンジ』(71)で主人公アレックスが受けた、強制的に暴力的な映像を見せることで人間の暴力性を抑える治療法。

今作は後半に強烈なメタ構造的ギミックを使いつつ、映画にしかできない表現でスクリーンの前に座る私たちに問いをかけてきます。それはまるで『蒲田行進曲』(82)で深作欣二が「全部作り話だから」と病室のセットを倒したように、『関心領域』でジョナサン・グレイザーは、ラストのシークエンスで「全てが過去から地続きの現実なのだ」と観客に突きつけてきます。過去から現代へ、あの空間に切り替わった瞬間の音作りに注目してほしい。通常、映画の音響表現では空間が変わったら後ろの背景音、俗にバックグラウンドノイズといわれる音が変化するのが定石です。ヘスが振り向き画面が真っ暗な空間に飛んだ時、後ろの背景音は一切変化せずつながり続けています。これはグレイザーからの、過去と現在、創作と現実を繋げる明確な音のメッセージであると感じました。

もう一度言います。鑑賞の前後であなたの中に変化が生まれること、それこそが映画体験の本質です。この作品を鑑賞し終えたあなたの元にこの拙い文章が届き、変化の一助となることができたら幸いです。

ユダヤ系のグレイザーがこの作品を撮り、その公開が進む今現在、世界では何が起きているのか。一人一人の「関心領域」が問われています。私たちはヘスと何も変わらない「普通の人間」なのだから。

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文:根本飛鳥(録音技師)

1989年生まれ、埼玉県出身。多摩美術大学在学中から活動を始め、インディーズから商業大作まで幅広く参加。近年の主な参加作品は『哀愁しんでれら』(21/監督:渡部亮平)、『余命10年』(22/監督:藤井道人)、『最後まで行く』(23/監督:藤井道人)、『ちひろさん』(23/監督:今泉力哉)、『アンダーカレント』(23/監督:今泉力哉)、『パレード』(24/監督:藤井道人)など。『青春18×2 君へと続く道』(24/監督:藤井道人)が絶賛公開中。Netflixオリジナルシリーズ『さよならのつづき』が公開待機中

『関心領域』

5月24日(金)新宿ピカデリーほか全国公開

配給:ハピネットファントム・スタジオ

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