59才 失くした物と得た物【連載第1回】 結婚してから35年、「愛」はなくとも「情」は生まれる

結婚してから35年、「愛」はなくとも「情」は生まれる

ダンナが死んだ―まさかの現実。

自覚はなかったが、この時から私の「おひとりさま」は始まろうとしていたようだ。

たしかにダンナは肝臓の数値が悪いと1ヵ月半入院したものの退院、体力も少しずつ戻りはじめ還暦祝の1泊旅行もし、そのたった1週間後にはこの世からいなくなるなんて、頭の中のすみっこにさえなかった事。

よくいう野球の九回裏2アウトからの逆転満塁ホームラン的な。

その1年半前、最愛の母が「くも膜下出血」で入院、手術。これからという時コロナ禍へ突入。

面会禁止の日々が続き傍にいてやることすらできず、むなしさや後悔ばかりの日々を送っていたが、現実をみればダンナと息子2人、仕事と家事に追われる日々。

仕事帰りに買物を済ませ、クタクタのヨレヨレで帰宅すると、一足早く帰ったダンナが、ひとっ風呂あびて今日1日無事終了―みたいな顔でレモンサワーを美味しそうに吞んでいるのを見ると、私も仕事してるんですけどーと料理をしながら包丁持つ手に力が入ったものだった。

60才を目の前にし、職場のバツ1をつかまえては「熟年離婚ってめんどうかな?!」とお昼を食べながらよく聞いていた。

ダンナは大の酒好き! ヘベレケになるまで呑む! 私はそれが大嫌い‼

別に暴力をふるうとかはないがそこら辺で寝る。ベッドへ行ってと言っても返事のみ。この毎晩エンドレスで続くやりとりに嫌気がさしていた。1度きりの人生、こんなんでいいの? と不満はつのり「熟年離婚」という言葉が頭の中を横切る。

しかし、ダンナは子供や孫たち、実家の親たちからは絶大の人気を誇っていた。とにかく「優しい」のだ! これが私のめんどくさい事は後回しにする性格により、熟年離婚計画を一向に進まないものとしていた。

そんな時のダンナの死―。

マジで? え? お母さんじゃなくて?

この頃は母の寝たきり生活も1年半を過ぎ、面会も出来ず病院の天井だけをただただ見つめている母を想像すると、苦しまずに安らかに逝ってくれたら……と祈る様になり、少しずつ母の死をも受け入れることができはじめていた。―のにである。

嫌な予感がなかったわけではない。

ある日寝室の掃除をしていると、ベッドから近所にできる葬儀場の広告が出てきたり、夕食の最中、いつもの様にレモンサワーと私の作った料理をパクパクとたいらげながら「俺の通帳の暗証番号はお前の誕生日やけん」との発言に、すかさず「えーなんでー? 死ぬとー?」とふざけて返事をした。

まさか数ヵ月後には現実になるなんて思いもしなかった。

いつもの様に小さいケンカはしつつ季節は過ぎた。繰り返される日常の中、ある日ダンナが言った。

「ちょっと体調悪くて受診したら肝臓の数値が高くて来週から入院になった」

とのこと。

「仕事休めるかなー」

という私に、

「大丈夫、1人でバイクで行くけん」

とダンナ。

いくら頭の中に熟年離婚がチラつく鬼嫁でも結婚して35年、愛なんてとっくの昔に行方不明になっていたが「情」はある。半日休みをもらい付き添うことにした。

翌朝、全身に黄疸が出たダンナと、半休もらってよかったーとホッとした私がいた。

主治医から1ヵ月程の入院の説明を受け帰る私をエレベーター前まで送ってくれるダンナに、オイオイあなた病人ですよね! とつっこみを入れる私。入院が決まってから断酒したダンナはこんな時でも優しかった。お酒を呑みすぎなければ、ほぼケンカもしない夫婦仲なのだ。

「あー明日からご飯の心配もイラつくこともなく幸せだー」とちょっと浮かれた私がいた。

しかしコロナ禍である。面会禁止。何かあったらこちらから連絡しますと。何かあったら……ってどういう事? と引っかかりはしたが、スマホがある! それだけが頼りだったが、なぜか返信が来なくなる。

「なんだ?」「大丈夫?」想像だけが膨らむ。さすがに10日程で病院に連絡、どうにか主治医とダンナに会えることになった。

診察室で久しぶりに会ったダンナは、断酒と栄養管理された食事のお陰で、スイカの様なお腹も減っていたが「ラーメンも食べれん」と不満を言って私からつつかれた。

顔が見れて話せて安心した私の気持ちとは裏腹に、病室へ戻る姿のダンナは、ヨタヨタとまるでじいさんみたいで私を一気に不安にさせた。


※本記事は、幻冬舎ルネッサンス主催『第2回短編エッセイコンテスト』大賞受賞作品、有村 月氏の『59才 失くした物と得た物』より、一部抜粋・編集したものです。

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