「涙の理由は知らないけど、泣くなら美学を持たなきゃダメだよ」西麻布のゴッドマザーに相談すると…

前回:「デートの正しい作法がわからない…」西麻布の1Kの自宅で、28歳女が親友にすがりついた理由

西麻布の女帝。ゴッドマザー。

裏社会的な映画や小説…とにかくデフォルメされたフィクションの世界にしか存在しないと思っていた、そんな通り名で呼ばれる女性が今私の隣に座っているという現実感のなさ。

― しかも外見が…。

“女帝”の通り名を裏切らない圧巻のド迫力なのだ。

175cmの雄大さんと並んでも同じ目線に見えた長身&豊満なグラマラスボディに紫のシルクのマキシ丈ドレス。結い上げられた黒髪はつやつやだけど、きちんとシワがあるお顔の目元にはラメ、リップは濃いブラウンレッド…とけばけばしく見えてもいいはずなのになぜか上品。

― 大輝くんのお父さんと同じ歳くらいかもって話だけど…。

ということは、70歳は超えていることになるけれど。そう見えると言えば見えるし、いやいやもっともっと若いのではとも思える…という不思議に、私は見つめすぎるのは失礼だと重々承知しながらも、目が釘付けとはこのこととばかりに視線を外せずにいる。

「お嬢ちゃんは、はじめましてだね」

私の不躾な視線も気にせず、そうほほ笑んでくれた“女帝”に大輝くんが、へぇと声を上げた。

「光江さんの口調が優しい。ってことは、宝ちゃんはお眼鏡にかなったってことなのかな?」

ただの挨拶なのにお眼鏡とか…と思っていると、女帝…光江さんの視線が大輝くんにゆっくり動いた。

「…アンタの名前、なんだったっけ」
「うわ。またオレの名前覚えてくれてない」
「友坂のとこのお坊ちゃまだろ?」
「それは正解ですけど。大輝です。友坂大輝」
「アンタ、これといった特徴がないからねぇ。なぜだか名前が頭に残らないんだよ」
「特徴がない。うん、まあ、確かにオレはそうだと思うんですけど」

苦笑いで頷いた大輝くんに、いやいやなんで納得したの?という突っ込みが頭に浮かぶ。すれ違えば誰もが振り返る容姿を持つ大輝くんを特徴がないと言い放つ光江さんがますます興味深い。

「私は堂島。まあ、この辺りでは光江って呼ばれることの方が多いけど、好きな方で呼んで」

光江さんから自己紹介を受け取り、私も名乗ると、おやまあ、と大げさにおばあちゃんっぽい口調で(実際におばあちゃんなのかもしれないけれど)光江さんが笑った。

「宝。そりゃまた厄介な名前をつけられたもんだねぇ」
「厄介、ですか?」
「親の期待が重そうだ。重すぎる親の期待は呪いになる」

― 親の期待。重すぎる期待は呪いに。

私自身はそう感じたことがない…けれど。まるでさっきまでの私たちの話題を見透かしたようなその言葉に、私は思わず愛さんを見てしまった。愛さんは驚きからか目を見開いたまま光江さんに聞いた。

「…怖い。光江さん相変わらず怖いです。もしかして何か知ってます?」
「知らないよ。知りたくもない」

光江さんは心底どうでもいいと言わんばかりに、深いため息をついたあと、ああタバコが吸いたい、と言った。なんでこの店禁煙にしちゃったんだろうねぇとつぶやきを続けた光江さんに、大輝くんが、いや屋内禁煙は法律ですからと笑う。

そのタイミングで自動ドアが開き、雄大さんが戻ってきた。手には光江さんご所望のワインリスト。“普段は出していない方のリスト”らしいそれを無愛想に光江さんに手渡したあと、雄大さんは、仕事の電話をしてくる、とまた出て行った。

「あ、逃げた」

そう言ったのは大輝くんで、光江さんは気にする様子もなく、ワインリストに集中している。

― 雄大さんは光江さんが苦手なのかな。

私がそんなことを思っていると、愛さんが勢いよく言った。

「光江さん…!今日は私に、おごらせてもらえます?」
「…私がおごる方が楽なんだけどねぇ」

そう答えた光江さんは、しばらくじいっと愛さんを見つめたあと、仕方がないかとつぶやいた。

「…まあ、いいよ。1時間なら。それ以上は無理」
「やった!光江さん、なんでも頼んでください」
「なんでもって。愛、アンタ、このリストに並んでるワインの値段わかってる?」
「う…。知らないですけど。でも大丈夫、今日は覚悟しました」
「じゃあ遠慮なく。ババアのたわごと代を有難く頂きます」

― ババアのたわごと代?どういうこと?

何にしようか…とパラパラとワインリストをめくる光江さんを見る限り、愛さんのおごりでワインを飲むのだろうけれど。私におごらせてもらえます?からババアのたわごとへの流れが理解できずにいると、大輝くんに、宝ちゃん、と呼ばれた。

「オレたちはカウンターに移動して、終わるのを待っていようか」

光江さんとの話が終わったらすぐ合流するからごめんね、と両手を合わせた愛さんに謝られ、何が終わるのを待つのかいまいちわからないまま私は頷いた。大輝くんに続いて個室を出ようとしたとき、お嬢ちゃん、と光江さんに呼び止められた。

「涙の理由は知らないけどさ。ただ泣くだけなら赤ん坊と同じだからね」
「…?」
「美学を持たなきゃダメだよ」

理解できずに問いかけようとした私に光江さんは、また今度ゆっくりね、と言った。

仕事の電話だと言っていたはずの雄大さんは、カウンターで1人、いつものラムをロックを飲んでいた。

「光江さんが苦手で逃げちゃう雄大さんかわいー。電話、ウソだったの?」

茶化す口調で雄大さんの肩に回された大輝くんのその手を、ウソじゃない、電話が終わって戻るのが面倒だっただけだと雄大さんがあしらう。雄大さんと大輝くんに挟まれてカウンター席に座ると、今日この店に入った時の緊張感が復活した。

― 何から話せば…。

西麻布の女帝の登場…というか乱入によりごまかされていた感があったけれど、雄大さんともきちんと話さなければならない。

「宝ちゃん、何にする?」

大輝くんに聞かれて、私は自分にはお酒の知識も注文のレパートリーもないことに改めて気がついた。その上、この店にはメニューが無い。いつもは愛さんがおすすめを教えてくれてるからなぁ…と、以前勧められたジントニックを思い出し、頼んだ。

大輝くんは、雄大さんと同じラムをソーダでと注文した後、さっきの“ババアのたわごと”について説明してくれた。

「光江さんに、おごらせてください、ということは、相談させてほしい、と同義なんだよね」

同義?と聞き返した私に大輝くんは頷いて、いつからそうなったのかは知らないけど、と続けた。

「知る人ぞ知る…って感じの不思議なシステムなんだよ。光江さんのその日の気分で、相談を受けてくれるかくれないかは決まるんだけど、気分が乗れば、悩みだったり、喝を入れて欲しかったり、まあいろいろ聞いてくれてアドバイスしてくれるというか。

西麻布の女帝のカウンセリングシステム…って感じかな。光江さんに話を聞いてもらった人達が次に進めるようになるというか、相当ハードなトラブルが解決したって噂もある。そのお礼というかお代が、光江さんが飲みたいお酒を一杯おごるってことで。だから“ババアのたわごと代”なわけ」

“ババアのたわごと”とはつまり、“光江さんのアドバイス”のことなのか。なんだかものすごいパワーワードで、よくわからないけれどご利益がありそうだ。

「政治家とかにも実はお抱え占い師がいるって聞いたことない?光江さんは占い師じゃないけど、オレの父親も、たまに光江さんと話してるみたいなんだよね。うちの父はいつもね、相談相手を間違えると人生が狂うって言ってるんだけど…」
「人生が狂う?」
「うん。良い相談相手を見つけられて、相談者の人生が加速するのは良いパターン。でも相談相手を間違うと人生が減速してしまうこともある。減速ですめばいいけど、後退することもあるし、時には人生が終わるときもあるって。

だから…相談する相手は慎重かつ丁寧に選べ、選ぶ自信がないなら相談しない方がましだって何度も言われたなぁ」
「…わかるような…」

わからないような。と思っていると、大輝くんが笑った。

「まあとにかく…光江さんは、うちの父みたいな立場の人間にとっても、貴重で信頼できる相談相手だってこと。光江さんが、西麻布の女帝とかゴットマザーって言われるのは、そういう理由があるんだよね」

そういえばさっき。ただ泣くだけなら赤ん坊と同じ。美学を持たなきゃダメ。そう言われた。その意味を私も聞いてみたい。そう思いながら大輝くんに尋ねた。

「光江さんは、どんな人の相談でも受けてくれるの?」
「うん、光江さんの気が向けばね。オレはまだ相談させてもらったことはないけど、一杯おごる、っていうのも、別に高いお酒ばっかりじゃないし。それこそ、これ」

大輝くんは、私のグラスを指さした。

「一杯1,300円のジントニック。これを光江さんにおごって、相談にのってもらってたオレより若い女の子もいたよ。何を相談したかのかは知らないけど、帰る時には、めっちゃ癒やされたぁ~明日からまたがんばれるぅ~って号泣してた」
「…あの人の猛毒舌にどうやったら癒やされるというのか、オレにはナゾすぎる」

がまんできないとばかりに呟いた雄大さんを、ムキになってかわい~とまた大輝くんが茶化してから続けた。

「ただし、光江さんは誰にも連絡先を教えないらしいから、遭遇した時に捕まえるしかないっていうレアキャラ扱い。携帯を持ってるのかどうかもナゾらしいよ。だからみんな愛さんみたいに、会ったらチャンスを逃さない!ってなるわけ」

― あれだけ派手ならすぐに見つかりそうなのに。

かくれんぼには全く向いていない存在感…なんてことを思っていると、大輝くんの携帯が短い音を立てた。画面を確認した大輝くんのその顔がフニャっととろけて、ごめん!と勢いよく私たちを見た。

「オレ、帰っていい?」
「…は?何言ってんだ、愛を待とうって言ったのはお前だろ?」

そう言った雄大さんに、そうなんだけどさ…と答えながらも、大輝くんは大好物の前で“まて”をさせられている子犬のようなソワソワ感を出し始めた。

「本当にごめん。でも今、彼女から会いたいって連絡がきて。会えるなんて超久しぶりだから、今すぐ会いにいきたい」

― す、素直すぎる。

今すぐ会いに行きたいその彼女は…まだあの、人妻だという年上の女性なのだろうか。

そういえば彼女の話はしばらく聞いていなかったし、その気配を感じることもなかったなと思ったりしている間にも、大輝くんの大きな体からは、今すぐ飛び出したいといううずうず感がだだ漏れしまくっている。

そんな状態で、ここに留めておくのは気が引けるしかわいそうだ。

「…私は全然。行ってもらって全然いいんだけど…」

雄大さんは?と、私が雄大さんの方を向こうとした瞬間、ありがとう宝ちゃん!!と大輝くんが勢いよく立ち上がり、その勢いのまま私を抱きしめた…と同時に、私の頬でチュッと音がした。しかも2回、つまり両頬に。

― ちゅーされた!?

私が衝撃に固まっている間に、大輝くんの背中があっという間に遠ざかっていく。呆れたような雄大さんの溜息に少しだけ我に返り、雄大さんに聞いてみた。

「…今、私、キスとか…されま、した?」

雄大さんは溜息モードのまま、さっきのはキスっていうか、あいつが興奮したときの癖、とこともなげに言った。

「フランス式に言うと、ビズ、ってやつ。親愛の情以上の意味は全くないから気にすることない」

気にしますよ!こっちはようやくハグに慣れたばかりなのに、ここへきてキス。そりゃ確かに海外では挨拶です。でもなぜビズ?なぜフランス語!?…と混乱のまま気がついた。

― 雄大さんと2人きりになってしま…った。

一気に気まずさが増した。そう思うと、最近の自分がいかに、大輝くんがいてくれること、大輝くんの存在に甘えていたのかを自覚せざるを得ない。

でもここからは、自分でなんとかするしかないのだ。焦りの中で言葉を探しているうちに、雄大さんが咳払いをした。

「…謝るのは慣れてない」

呟かれた言葉に驚くと…なんともバツの悪そうな、照れたような、でも不機嫌にも見える、そんな形容しがたい表情で雄大さんがこちらを見ていた。

― こんな顔は初めてみる…。

雄大さんは、もう一度小さく咳払いをしてから言った。

「オレが間違ってた。…ごめん」

― え…?雄大さんに謝られた?

そんなに驚く?と雄大さんが苦笑いした。

「…愛からも大輝からも話は聞いた。正直なことを言うと、オレは今も、宝ちゃんが最初にとった行動は間違ってると思う。愛と一緒に、あの元旦那について行っちゃったこととかね。あれは無謀すぎる。でも…」

そこで一度言葉を止めてから、雄大さんは続けた。

「無力を自覚しろとか、必要なのは冷静な作戦であって、感情論は不要とか…そんな風に言ってしまったことを謝りたい。オレが間違ってた。

今回は、宝ちゃんの感情的な行動にタケルくんが揺さぶられた。その結果、問題があぶり出されたし、タケルくんは素直になることができた。つまり宝ちゃんの感情論がタケルくんを救ったんだよね。そして愛も救われた。たまたまの結果だったとしてもそれが事実だ。

俺も愛も、宝ちゃんをひどい言葉で傷つけた。ごめん。そしてありがとう」

まさか、そんなことを言ってもらえるとは。私は驚きのまま言葉を発することができなかった。

雄大さんがグッとグラスのラムを飲み干し、次を注文した。今日ちょうど新しいラムが入荷したんで、それを試してもらってもいいですか?と聞いた店長さんに、雄大さんが短く頷く。しばらくすると店内のざわめきをBGMに氷を砕く音が響き始めた。

「宝ちゃんとこの店で初めて会った時にさ。覚えてる?オレが、やりたいこと10個教えてって言ったこと。金がかかることでもいいよって」
「はい、もちろんです」
「あれ、ちょっと試すというか意地悪な気持ちがあったんだよね。その10個で、宝ちゃんの欲望を見定めようとしたっていうかさ。

この辺りで生活してると、若い子たちが沢山寄ってくるんだよ。有名人や権力者を紹介して欲しいとか、金銭的な援助を求めたり、ステップアップの道具としてオレたちを利用しようとする子たちがね。

まあ、無防備な強欲さは若さの特権ともいえるし、野心がないと経済は回らないわけだから一概に悪いともいえないけど。強欲に囚われるのは恐ろしいよ。もらうことが当たり前になると利用価値のありなしで人を判断するようになしね。

最初は宝ちゃんのこともそんな子たちの1人なんだろうなって思ってた。失恋して引っ越してきたとか、人生変えたいとかもウソ臭いと感じてたしね。それは作戦かも、この子純朴そうな雰囲気も演出なのかもって正直疑ってたよ」

― つまり雄大さんは、私がウソをついていると思っていたということ?

その衝撃に驚いていると、でもね、と雄大さんが続けた。

「でもね、宝ちゃんって、あきれるくらいなーんにも裏がなかった。ちょっと危なっかしくて心配になるくらい、本当にただのいい子ちゃんだった」
「……さすがに褒められてないのわかりますよ」

少しムッとしてそう言うと、雄大さんの笑いが大きくなった。

「オレなりに、褒めたつもりだよ。宝ちゃんのいい子ちゃんっぷりというか、無防備さは本物で信用に値する。その上で改めてよろしくお願いしますって感じなんだけど」

「え?」

どういうことですか?と聞いた私に、雄大さんは照れたように、少しだけ目線を泳がせた。そして。

「友情というものがもしこの世にあるとしたらさ。今日から改めて、それをはじめたいなって。…もちろん、宝ちゃんの同意があればだけど。どうかな?」

乾杯をするようにグラスを掲げたその顔は少し怒っているようにも見えて、雄大さんは、照れが加速するとこんな表情になるのだと新発見をした気持ちになった。

どうやら私は、つい最近まで雄大さんに信用されてはいなかった…らしい。それはショックだけれど。

― 今はもう信用してくれた…友人として認められたってことでいいのかな?

なんだかくすぐったい気持ちになり、こちらこそよろしくお願いします、とグラスを少し持ち上げると、雄大さんがカツンと合わせてくれて、乾杯の形になった。

「…じゃあ宝ちゃんへ改めて。ようこそ、西麻布へ」
「今!?今ですか!?」

反射的に突っ込みを入れた私を、オレ的には今なんだよ、と雄大さんが笑った。

うれしいけれどむずがゆい…友情の儀式を終えた私は、もう一つ雄大さんに話すべきことがあったと思いだした。伊東さんからのお誘いの話だ。

年明けにデートに行こうと誘われていることを伝えると、雄大さんはあっさりと、知ってるよと言い、私が聞き返すよりも早く続けた。

「伊東くんはその辺ちゃんとした人だから」

どうやら伊東さんは私に最初のLINEをする前に、私に連絡をとってもいいかの確認を雄大さんにしてくれていたらしい。

「…で?いくのいかないの?」

その質問に、行きたいとは思っているものの、デートと言われて緊張していることや、2人きりの会話が成り立つか心配なので、なんと返事すればいいのか迷っている…。と素直に答えてみると、雄大さんは、ふーん、と携帯を取り出し何かを打ち込み始めた。

そして。

「はい、これで完了」

見せられたのは、雄大さんの携帯。LIINE画面で…トークの相手は伊東さんだった。

≪今、宝ちゃんと一緒にいて、宝ちゃん、伊東さんとの食事には是非行きたいそうです。2人きりになると緊張してしまうかもと言っていますが、楽しみにはしているようなので、伊東さんの日時が決まったら、連絡してあげてください≫

「…ちょ、ちょっと!なに!?」

私が焦って画面を見つめている間に、メッセージに既読がついた。そして≪了解です、ご連絡ありがとうございます

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