【ヴェルサイユ宮殿】での運命の出会い。マリー・アントワネットと相思相愛だったフェルセンが肌身離さず身に付けていたものは?

おとぎ話に出てくるような、世界の美しいお城。みなさんが一度は訪れてみたいお城はどこでしょう。ラブロマンスが背景に伝わるお城を、洋の東西とわず歴史が大好きという鷹橋 忍さんにひも解いていただきましょう。今回は、フランスのヴェルサイユ宮殿です。

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ラブロマンスが背景にある世界のお城、今回は、池田理代子さんの不朽の名作『ベルサイユのばら』の舞台にもなった、ヴェルサイユ宮殿をご紹介しましょう。

フランス絶対王政時代の象徴

ヴェルサイユ宮殿は、フランスの首都・パリから南西約22㎞に位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにあります。

もともとは、ルイ13世(1601~1643/在位1610~1643)の狩猟のための別荘でしたが、「太陽王」と称されたルイ14世(1638~1715/在位1643~1715)が、大宮殿へと発展させました。

バロック建築の傑作と謳われる絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿と地平線まで続く大庭園は、フランス絶対王政の象徴といわれました。

「ヴェルサイユの宮殿と庭園」として、1979年に世界遺産に登録されており、現在も年間600万人以上の人々が訪れるとされる、フランスでも屈指の観光名所です。

マリー・アントワネットとヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿というと、やはり、フランス王妃マリー・アントワネット(1755〜1793)が、真っ先に浮かぶのではないでしょうか。

マリー・アントワネットは、名門中の名門王家であるオーストリアのハプスブルク家の皇女に生まれました。
髪はブロンド、瞳はブルー、肌は白く、愛らしい容姿で、明るく活発な性格であったといいます。

マリー・アントワネットは14歳のとき、フランス王太子のルイ・オーギュスト(のちのルイ16世/754~1793/在位1774~1792/ここではルイ16世で統一)に嫁ぎ、1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で挙式しました。夫となったルイ16世は、一つ年上の15歳でした。

18歳でフランス王妃に

1774年5月10日、国王ルイ15世(ルイ16世の祖父)が天然痘で死去したため、ルイ16世が国王に即位し、マリー・アントワネットは18歳で王妃となりました。

ルイ16世はダンスやしゃれた会話は苦手でしたが、真面目で民を思う良き君主であったといいます。

多くの愛人をもったルイ14世や15世と違い、マリー・アントワネット以外の女性に関心を寄せることもありませんでした。

ですが、ご存じの通り、マリー・アントワネットのほうが、別の男性に心を奪われてしまいます。そう、その相手とは、スウェーデンの美貌の名門貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン(1755~1810)です。

ヴェルサイユ宮殿での運命の出会い

諸説ありますが、マリー・アントワネットとフェルセンが最初に出会ったのは、ヴェルサイユ宮殿だったといいます。

父フレデリックの命によりヨーロッパ各地を遊学していたフェルセンは、1773年11月、18歳のときにパリを訪れ、スウェーデン大使クロイツの邸宅に逗留しました。

翌1774年1月1日、クロイツ大使はフェルセンをヴェルサイユ宮殿に参上させ、当時の国王ルイ15世や、まだ王太子妃であったマリー・アントワネットを紹介したといいます(以上、エマニュエル・ド・ヴァリクール著 ダコスタ吉村花子翻訳『マリー・アントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち』)。

フェルセンは長身で均整のとれた体躯をしており、目が大きく鼻筋が通り、冷たく感じるほど整った容姿の持ち主でした。

おまけにスポーツ万能で、知識や社交術も遊学で磨きがかかっており、多くの貴婦人たちの胸をときめかしてきましたが、マリー・アントワネットも、その一人でした。

マリー・アントワネットとフェルセンは相思相愛であったのは確かなようですが、愛人関係にあったか否かは確定できないといいます(安達正勝『マリー・アントワネット』)。

ですが、当時の貴族たちは、二人は愛人関係にあると公然と噂しており、1785年3月にマリー・アントワネットが出産した次男ルイ・シャルルの父親は、「ルイ16世でなく、フェルセンではないか」とさえ、囁かれていました。

フランス革命勃発

1789年7月14日、バスチーユ要塞が陥落し、フランス革命が勃発。10月には国王一家はヴェルサイユ宮殿を追われ、パリに移されました。

親しかった人たちも次々と離れていくなか、フェルセンはマリー・アントワネットを支え続けます。
有名な「ヴェレンヌ逃亡事件」をはじめ、マリー・アントワネットの救出に奔走するも、いずれも実を結ばず、1793年10月16日、マリー・アントワネットは処刑されてしまいました。

フェルセンはその悲報を、ベルギーのブリュッセルで知ったといいます(川島ルミ子『マリー・アントワネットとフェルセン、真実の恋』)。

失意のフェルセンはスウェーデンに帰国しますが、1810年6月20日、スウェーデンの王太子暗殺の疑いをかけられ、民衆から虐殺されてしまいました。

凄惨な遺体となったフェルセンの胸には、AとF、マリー・アントワネットとフェルセンのイニシャルが刻まれた時計がありました。
その時計は、マリー・アントワネットから贈られたものであり、フェルセンは肌身離さず身に付けていたといいます。

最期の瞬間まで、フェルセンの心は、マリー・アントワネットとともにあったのでしょうか。


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