ブル中野、西村修に語った“絶望からの復活” 自身も肝硬変で闘病「本当に死んだら終わりだと」

WWE殿堂入りを果たしたブル中野(左)が西村修を見舞った【写真:ENCOUNT編集部】

4年前に肝硬変で長期入院、語った“病気との向き合い方”

食道がんステージ4を公表したプロレスラーで文京区議会議員の西村修を“女帝”ブル中野が激励した。2人は1994年に米国で出会って以来、30年の関係で、互いに「西村くん」「中野さん」と呼び合う。また、中野も4年前に肝硬変と診断され、闘病中だ。WWE殿堂入りのリングと盾を携えて見舞いに来た中野に、西村は「元気をもらいました」と、がん撃退への思いを強くした。

西村から症状について説明を受けた中野は、「抗がん剤を2回やって、2割ぐらい痛みがなくなったって言うから、もう効いているんだなと。全部で6回ですか。それが終わった後にどこまで効果があったかでまた治療の方法が変わってくるというから、そこまでとりあえず頑張ってくれればいいなと思います」と激励。

「抗がん剤ってすごく怖いイメージがあるじゃないですか。やせていっちゃってとか、髪の毛がなくなっちゃうとか。でもそういうのがまだ今はなかったので、ちょっと安心なんですけど、ただトレーニングできないっていうのは一番つらいと思うんですよ。持ち上げたりするのも痛いって言っているから、それが一番つらいだろうなと思っています」と、レスラーとしての練習ができない西村の胸中をおもんぱかった。

2人の初対面は94年、場所はニューヨークだった。「94年かな。私、1番初めにニューヨークに行ったのは真夏だった。山崎五紀(現姓・永井)さんがニューヨークの日本レストランやっている方とご結婚されて、1人目の子どもが生まれたのが94年の7月。たぶん8月ぐらいに山崎さんの家で(西村と)会っています」

全日本女子プロレスでダンプ松本との極悪同盟で大暴れ。アジャ・コング戦で見せた金網最上段からのギロチンドロップは今でも語り草だ。日本でトップレスラーとして幾多の伝説を築いた中野は、拠点を海外のWWF(現WWE)に移していた。

一方、西村は新日本プロレスで行われた若手の登竜門「ヤングライオン杯」で準優勝。当時フロリダに住み、海外武者修行中だった。山崎とは93年にタイガー服部レフェリーの紹介で知り合っており、ちょうど遠征帰りでニューヨークに立ち寄っていた。

その後、2人の関係はさらに深まる。中野がテネシーからニューヨークに引っ越すと、西村もニューヨークに移住。「オフの日の3日間、4日間は毎日みんなでご飯を食べていました。私は練習以外やることない。お金がないからランチだけ五紀さんのレストランでウエーターとしてバイトして、お昼ご飯を目いっぱい食べさせてもらっていました」(西村)。95年には北朝鮮で「平和の祭典」を成功させたアントニオ猪木が、国連の会議に出席するためニューヨーク入り。西村、中野は猪木と食事した翌日、セントラルパークで汗を流している。

初期のころの互いの印象について聞くと、中野は「もうすっごい真面目な、今とは違う好青年でした」とニヤリ。

「本当に真面目でいつも練習ばかりしていましたね。新日本から来ているけれども、試合がいつもあるわけじゃない。会社にレールを敷かれて、ここに行けって言われて来てるわけじゃないから自分でいろんなところを探したりしていました。英語もすごくしゃべれたので、なんでも自分でやるんだなと驚きました。私の場合は、会社からWWFに行けって言われて行っている感じだったので、とにかく全く違う環境だったので、本当にすごいなと思っていましたね」

西村は中野は羨望(せんぼう)の対象だったと明かす。

「悔しいんですけど、やっぱり、デカさと、大きさと。だって、こっちはズブズブのペーペーのただの若手の修行ですよ。でも、中野さんは女子のチャンピオンですからね」

若手時代、西村はなかなか太れないことに悩んでいた。中野は現役当時115キロ。日本人として初めてWWF世界女子王座を獲得するなど、世界の頂点に君臨する姿は、男女の垣根を超えて強く焼き付いた。「どっちが偉いとか、そういうの関係なしに、本当にプロレスのプの字も分からない小僧だったのに、プロレス抜きにして親しくさせていただいたのは楽しい思い出でした」。名もなき若武者を受け入れてくれた中野の優しさに、西村は今でも感謝している。

2人は1995年、セントラルパークで合同トレーニングを行っている【写真:ブル中野提供】

WWE殿堂入りで祝福も…気になった西村の意味深なSNS

中野は今年4月、WWEの殿堂入りを果たし、フィラデルフィアで開かれた式典に出席した。日本の女子選手として史上初の快挙に祝福が鳴りやまない中、気になっていたのが、西村のSNSの書き込みだった。

「旅行に行ってきます、旅に出ますみたいな感じで書いてあって、なんだろうなと思っていたら、病気のことを後から聞いて。いやもうびっくりしました。前にもがんになっているから、それを全部自分の力で治したというふうに思っていたので、まさかまた再発という感じでしたね」

西村は98年、後腹膜腫瘍を患い、長期欠場した。当時を知る中野にとって、2度目のがんは思いもよらないものだった。「最近もゴルフだったり、食事会だったりでちょこちょこ会っていたからまさかという感じでした。もう50歳を過ぎているし、前とはちょっと状況が違うんじゃないかなっていうふうに思って」。中野が海外にいる間も、メールやLINEで連絡を取り合い、帰国後、西村が退院しているタイミングで対面が実現した。

西村の病気が発覚するまでは、体調が心配されていたのは中野のほうだった。2020年6月、肝硬変と診断され、約2か月の入院生活を送った。医師から断酒や減塩を指示され、一時は「生きていく気力とかは全くなかった」と振り返るほど、絶望的な時期を過ごした。

中野にとっても、大病になったことは驚きだった。前年まで都内にバーを経営。深夜まで営業し、接客を通じて大量の酒を飲んでいた。

「私はすごいお酒も強かったし、そういう病気にはならないだろうなってたぶんみんなも思ったし、西村くんももちろん思ったと思う」

西村も「体調が悪いのは気づかなかったですね。中野さんは胃をほとんど全摘しちゃいましたから食べれない。だから酒でごまかしているというのは分かってましたけど」と実感を込めた。

闘病を通じて、中野はどのように病気と向き合っているのか。

「入院しているときとか、西村くんもそうだし、仲間だったり家族だったりとかがどれだけ心配して、そのために時間を使ってくれたか。あとは、担当してくれたお医者さんとかもそうなんですけど、そういうお世話になった人たちを本当に裏切らないようにという生活を心がけて、今は1日1日を過ごしている感じですね」

治療により肝硬変の症状が落ち着くと、引っ越しして自宅にジムを併設。家庭菜園を始めるなど、一から生活を見直した。環境を変えたこともプラスになった。

「若いときは、もう絶対お金持ちになるとか、上に行ってやるんだっていう気持ちが一番強かったけれども、今はもうそういうことではなくて、健康に生きていることが一番価値があると思うようになりました。もう本当に死んだら終わりだっていうのが一番分かったし、お金とか名誉とかそういうことではなくて、健康に毎日過ごすことを心がけています」

西村の抗がん剤治療は第3クールを迎えている【写真:ENCOUNT編集部】

西村の決意「私も上を向いて抗がん剤に耐えていく」

出会いから30年。仲間の絆は変わらないが、もうむちゃできない年齢に差しかかっている。

「やっぱり気持ち的には、いつまでも若い気でいるんですよね。体のことも考えずに、若いときの記憶のまま生きちゃってたんじゃないかなっていうのがあるので。でも、西村くんの場合は本当に分かりやすくというか、痛くなったり、体の変化がいっぱいあると思うので、私はそこまでではなかったから、本当に大変だなと思います。命に関わることだと思うし、私も肝硬変でそこで入院したからよかったけど、もし肝臓がんとかなった場合には、たぶん同じような感じになっていたと思うので、この歳になったので、改めてそこは気をつけなくちゃいけないなと思っていますね」

中野がかみ締めた言葉に、西村もうなずいた。

「がん患者は、病気が病気だけに人生投げやりになったり、下を向きがちなんですけど、ブル中野という“女アントニオ猪木”を地でいく人間は何があろうともポジティブなことしか考えない。珍しいお手本みたいな人とお会いして、私も上を向いて抗がん剤に耐えていきます。元気をもらいました」と前を向いた。ENCOUNT編集部/クロスメディアチーム

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