「没収されても取り戻せるように」原子野をフィルムに収めて 破壊された都市 傷ついた人たち…撮り続けた被爆2か月後の広島

人類史上初めて原子爆弾が使用されて79年が経とうとしています。核兵器を盾にウクライナへ侵攻を続けるロシア。G7広島サミットで大統領が被爆地を訪れたアメリカも臨界前核実験を繰り返しています。核兵器の使用が現実的な危機として存在しているいま、人類に警鐘をならすのは被爆の惨状を後世に伝える「広島の記録」です。

1945年8月6日、人類史上初めて原子爆弾が人の頭の上に落とされました。広島は一瞬にして廃墟となりました。

1993年、東京の旧日本映画社の倉庫で、広島・長崎で撮影した原爆記録映像が見つかりました。全25巻、長さ2000メートルを超えるこのフィルムには、原子爆弾の破壊力と人への影響について記録されていました。

被爆から2か月後、焼け野原となった広島を映し続けたこのフィルム。RCCは被爆50年をはさんで、この撮影に関わった人たちを訪ね、映像に映る場所や人の特定を進めました。

日本映画社の元ディレクター相原秀二さんは、この記録映像の企画当初から参加し、その後のアメリカ軍との交渉や、英語版「原子爆弾の影響」の制作まで一貫して携わりました。

原爆の調査はまずに日本によって始められ、占領の開始と同時に、調査の主導権はアメリカに移りました。日本映画社は、原爆調査団の補助機関として位置づけられ、「生物」「物理」「医学」など、調査に対応するように撮影班が編成されました。占領下の厳しい規制のもとにおかれた時期に撮影されたこのフィルムは、原爆の惨状をまとまった形で後世に伝える貴重な映像となりました。

相原秀二さん(1994年取材)
「八丁堀の福屋百貨店の2階に布団が置いてあった。伝染病だと思ったんですよ。本当に分からないんですよ。まだ原爆の病気というものが。下痢はあるし、吐き気はする。分からない状態で患者を寝かしていたから、使わないように置いておいてくれと」

相原さんは映像を確認しがら、そこに移る建物や人物について説明していきました。フィルムには、原爆の放射線の急性障害により、力なく横たわる人たち。そして、大けがをして治療を受ける人たちの姿が収められていました。

「占領下では、客観的科学的に撮影するしか方法がなかった」

破壊され、廃墟となった都市に臨時の救護所には治療を待つ長蛇の列。頭髪が抜けた人たちや、大やけどの跡…。当時の撮影班はそうした姿を、客観的、科学的に撮影していたといいます。

相原秀二さん(1994年取材)
「万一の場合を考えていた。もしアメリカにフィルムを取られても、取り戻せるようなね映画を作っておけばいい。つまりは、客観点に科学的に撮ってたいたら、何の不都合もないはずと考えていた」

もし、フィルムが没収されても科学的に撮影さえしていれば、取り戻すことができる。占領下の中、原爆の記録を撮るためには、この方法しかなかったといいます。

原爆記録映画は、日本映画社がアメリカ側から制作を委託される形で完成しました。1946年5月、アメリカ本国に送られ、長期間極秘扱いとされました。

なぜ日本にフィルムが残っていたのか詳しい経緯は分かっていません。ただ、原爆記録映画に盛り込まれていないシーンも数多くあり、より被爆の惨状に迫るものといえます。

被爆から79年経っても、世界にはまだ1万発を超える核兵器が存在します。ロシアは核兵器の使用を盾もウクライナへの侵攻を続けます。

アメリカも、核兵器の性能の維持・強化のため、核爆発を伴わない臨界前核実験を繰り返しています。

混沌とする世界に「広島の記録」が警鐘をならしています。

RCCでは、被爆2か月後に撮影された広島の映像や写真などを、広島市や中国新聞などの報道機関とともに、被爆80年となる2025年にユネスコの「世界の記憶」に登録されるように取り組みを行っています。そして、核兵器の使用が危ぶまれるいまだからこそ、改めてこの原爆記録映像を見つめ直し、原爆の惨状を伝えていきます。

© 株式会社中国放送