岩隈久志「負けたら終わりの重圧あった」 WBC連覇へ望みをつないだ好投【平成球界裏面史】

WBC代表合宿で談笑する(左から)松坂大輔、岩隈久志、ダルビッシュ(2009年2月)

【平成球界裏面史 近鉄編54】平成21年(2009年)、岩隈久志は前年度の沢村賞投手として第2回WBC日本代表に選出された。前年、MLBで18勝を挙げた松坂大輔や、日本ハムでエースに成長していたダルビッシュ・有と侍ジャパンの3本柱として大きな期待を寄せられた。

ただ、岩隈には一抹の不安があった。国際舞台は近鉄が消滅した平成16年(04年)に先輩の中村紀洋と参加したアテネ五輪以来。その大会で右腕は予選ラウンドのオランダ戦で先発するのだが、とんでもない悪夢を見ている。

季節外れの寒さと強風の中で制球に苦しみ3安打、4四死球、3失点の大乱調で2回途中KO。これ以来、大会中に登板はなく、銅メダルを獲得したものの「緊張して何がなんだか分からないまま終わった」と悔しさをあらわにしていた。

そしてWBCでは1次ラウンド第3戦、グループ1位通過をかけて3月9日の韓国戦(東京ドーム)に臨んだ。「やっと出番という感じ。相手が目の色を変えてくるほど集中力が出る」と順調な調整ぶりに自信をみせていた。

4日はダルビッシュが先発し中国に4−0の順当勝ち。7日は松坂が先発し、打線の集中打で韓国を圧倒して14ー2のコールド勝ちを収めた。この時点でサンディエゴで行われる2次ラウンド進出を決めていた。

岩隈にとっては自らの国際舞台での屈辱を晴らすに格好の舞台のはずだった。ただ、試合は岩隈が5回1/3を1失点と好投したのも虚しく、打線が韓国の奉重根、現旭鄭、柳賢振、林昌勇の4投手のリレーの前に沈黙。まさかの0−1の敗戦でグループ2位通過という結果になってしまった。

ここから岩隈は重圧のかかるマウンドを経験し続けることになる。舞台を米国に移しての2次ラウンドは18日のキューバ戦(ペトコパーク)に登板。この試合は敗者復活戦で負ければ終わりという状況でのマウンドだった。

当時の天候は霧で外野への大飛球を見失うほどの環境。その懸念通りにキューバはフライの処理をミスし4回に2点の先制点が転がり込んだ。先発した岩隈は重苦しい空気をはねのけ6回を5安打無失点の好投。「負けたら終わりという重圧はあった。でも、冷静に霧があったのでフライを打たせずゴロを打たせようと意識していました」と低めにフォーク、シュートを集め18のアウト中15個をゴロアウトで奪った。6イニングでわずか69球の快投。これで侍ジャパンは連覇に望みを繋いだ。

アテネ五輪の時と同じ背番号20を背負っての国際舞台。大会中は1歳年上の松坂大輔と交流を深め、積極的に助言を求めた。MLB選手をはじめとするパワーヒッターたちの打撃傾向、WBC球の扱い方、米国のロジンの特徴など吸収すべきものは全て吸収した。その結果、アテネから5年の時を経て海を隔てた大舞台で結果を残した。

この時点で岩隈は大会規定により次戦登板可能なのは中4日での23日、決勝戦(ドジャースタジアム)のみという状況になった。当時は決勝の先発マウンドはダルビッシュと予想されており、岩隈はブルペン待機という見方が大半だった。

「いつでも行けるようにしっかり準備しておきます」。そう話していた岩隈に原辰徳監督から衝撃の通達が下されることになる。

© 株式会社東京スポーツ新聞社