月亭方正「俺、パグやわ!」クラスの人気者からバラエティ芸人、そして落語家への道

テレビのバラエティ番組などでの体を張った芸で人気となった山崎邦正。しかし、芸歴20年目、40歳の節目で芸人として不安に襲われる。そんな折に東野幸治の勧めで落語と出合う。人生の土壇場からの再出発は、自らの魂と向き合う旅へとつながっていく。

ピン芸人としての苦悩やテレビ出演で味わった気持ちの転換、そして落語との出合い。山崎邦正から月亭方正という新たな人生の可能性を開拓していく過程を、ニュースクランチ編集部が聞いた。

▲俺のクランチ 第52回-月亭方正-

コンビとしてデビューするも早くも訪れた土壇場

1988年、お笑いコンビTEAM-0としてデビュー。1991年には「ABCお笑い新人グランプリ」で最優秀新人賞を獲得するなど、順調に芸人人生を歩み始めたかのように見えた。しかし、彼の土壇場はすぐに訪れる。

「24〜5歳でコンビを解散したんで、その頃が最初の土壇場でした。芸人を本当に辞めようと思った時期です。関西の若手の登竜門である、ABCお笑い新人グランプリの最優秀新人賞も取って、月50万くらいは収入があって。うまいこと走り出したなっていう矢先に、相方が“芸人を辞めたい”と言ったんですよ。

最初は俺もすごい止めました。だって、これからじゃないですか。でも、最終的に“お笑いをやりたくないねん”って言われて、それには何も言えなかったですね。“じゃあ、しょうがない”ということでピン芸人になりました」

しかし、本当の苦難はここからだった。

「“アホでヘタレでおもんない”というキャラクターを受け入れた俺が悪いねんけど、この3つが自分ではずっと飲み込めずにいたんですよ。小さい頃から、周りからは“おもろい”と言われて芸能界に入ったのに……芸能界に入ってから腐っていったんです。

そこから救ってくれたんが、たまたま見たムツゴロウさんの番組だったんです。犬の集団のボスが変わる特集をやっていたんですけど、ボスが変わるときって、いろんな犬が喧嘩を仕掛けるというか。

そんなかに1匹の小さなパグがおって、ボスのセントバーナードに喧嘩を売るんですけど、バーンって飛ばされる。それでもへこたれずにガーっと向かっていく。ちっちゃいパグが吠えてる姿に感動して。“俺、パグやわ!”って」

そこからバカにされても噛みつく姿がウケて、テレビ番組への出演オファーも増えていった。自己肯定の難しさや、世間の期待と自己の魂との葛藤を経て、新たな道を切り開いていく。

「世間の求めているものと自分がやりたいことは違っていて、“世間が求めているものを受け入れたら、経済は回るんだ”と気づいた。自分の魂を殺して、箱に入れることにしたんですよ。そうすれば経済は回る。ただ、経済が回ったからといって、自分の魂が喜ぶかどうかは全く別の話なんです」

▲「自分の魂を殺して箱に入れることにした」と語る

山崎邦正から月亭方正への新たなる挑戦

テレビでの活躍で安定したキャリアを築いていたが、2008年に40歳を迎え、人生の新たな転機に直面する。

「40歳になると人生を振り返ったりしますよね。そんなときに、ほかの芸人と営業へ行って、俺が2〜30分時間を与えられても、やることがないんです。ほかの芸人はネタやったりするでしょ? やっぱ、俺はテレビ芸やったから……。

クラスのおもろいヤツってことは団体芸なんですよね。そんな自分が一人でステージに立ったとき、できることがないやん!って。テレビは20年やってきたから、そこに対しての自信はありました。例えば、『アッコにおまかせ!』のスタッフから、本番30分前に“すいません。出演者に欠員が出て、すぐ来てもらえますか?”って言われて、何も用意しないで行っても対応できたし、そういう自信はあるんです。

ただ、生のお客さんを前にして笑かす芸がない。俺が19歳でこの世界入ったときの芸人像と、あまりにも違う自分がいた。ただただ経済が回ってるだけ。そこで、すっごい落ち込んだんです」

その後、新喜劇の座長を目指すなどもしたが、自身の性格などから断念せざるを得なかった。大晦日の人気特番『絶対に笑ってはいけない~』など、テレビの視聴者としては順調に見えた道ではあるが、彼自身は真摯なお笑いへの思いによって土壇場へと向かっていたのだった。

「ルミネで座長になってコントもやってみたけど、自分が稽古したい!って急に思ったとき、ほかの人を集められへんのですよ。こう見えて気ぃ使いなんで(笑)」

転機は、東野幸治から落語を勧められたこと。山崎邦正は落語への興味を深めていった。

「今まで落語は聞いたこともなかったし、古典芸能ってなんやねん!っていう感じでした。でも、東野さんから“おもろいから聞いてみ”って言われて、東野さんに言われたらしゃあないかと、勧められた桂枝雀師匠の『壺算』と『高津の富』を聴いてみたら、もう衝撃を受けて。

落語ってこんな感じなん? おもろいやん! と、そこからずっと落語漬け。枝雀師匠を全部聞いて、次は立川志の輔師匠。“古典もおもろいけど、創作落語もおもろいやん!”って。もともと落語って硬いイメージがあったけど、全然違う。ほんま東野さんの言うこと聞いといてよかったなって思いますね」

東野幸治の助言に触れ、自らの新たな可能性を見出した。落語という新たな世界に挑戦する決意を固めることとなる。

「東野さんは昔から真実しか言わへん人なんです。普通はオブラートに包むじゃないですか。だから、白い悪魔とか冷酷人間とか、感情が無いとか言われる。それは真実の人やからなんです。

きっと“方正は何が得意で、 何が合うのか”をわかって言ってくれたんやと思うんです。藤井(隆)くんに対してもずっと“芝居やったほうがええんちゃう?”って言われていて。藤井くんも一時悩んでて、本人としてはバラエティでもっと上に上がりたいと思ってたけど、東野さんが芝居もやれば?って勧めて、今じゃお芝居でも売れっ子ですから」

先輩の助言によって彼の内なる魂が目覚め、芸人としての土壇場は新たな人生の幕開けを予感していた。

「落語に出会ったことで、魂を入れていた箱の蓋が震え出しよったんです。もう経済を回すとかじゃなく、自分を喜ばす人生を送りたいと。今まで懐中電灯を頼りに歩いていたのが、急に行く先が照らされた感じ。その奥はどうなってるかわからんけど、あとは行くだけでした」

『ガキの使い』の空気感を変えたらアカン

華やかな場所で活躍していたように見えるが、テレビ芸という綱渡りの人生にはさまざまなストレスがある。彼の妻は落語に没頭する姿を見て、“これで大丈夫だ”と感じていたと、のちのち方正に明かしてくれたという。

「落語はたくさん練習して覚えたけど、山崎邦正として劇場でやったら怒られるやろうな……とか考えました。それが原因で、せっかく見つけた道を閉ざされるかもわからんし。

当時、関西でレギュラー番組があって、陣内(智則)と(月亭)八光と、こいちゃん(シャンプーハット)の4人で毎週遊んでたんです。で、ふと“八光って落語やってたっけ? 月亭とかって言ってなかったかな”って気づいたんです。ホンマの本職やのに、そんなことも気づいてないくらい、落語について知らなかったんです(笑)。

ほんで、八光にすぐ電話して、“わかりました方正さん、ほんなら俺の弟子になってください”と笑いながら言われて、“いや、冗談ちゃうねん”って答えて(笑)。これこれこうで……って説明して、そこから“じゃあ親父(月亭八方)が勉強会をやってるから、方正さんも出れるように言うときますわ”って紹介してくれたんです。

それから毎月、呼ばれてもないのに勉強会に行ってました。“『看板のピン』(古典落語の演目のひとつ)を覚えてきました、見てください!”と。最初、(八方)師匠は“こいつ、呼んでもないのに毎月来よるな……”と思ってたそうです。

それが勉強会に通って1年半ぐらい経つと、本気だと伝わってきて。それから、“そんなに落語やりたいなら、正式に上方落語協会に入るか?”と誘われ、即答で“入りたいです!”と返事しました。

師匠からは“わかった。その代わり、落語をやめたら、芸能の世界からも足を洗えよ”と言われたけど、それでも構わんかった。たぶん師匠は師匠で、俺が上方落語協会に入ることで、周りから何か言われたと思うんです。それを俺には一切告げずに、ただ覚悟だけを確認したんやと思うんです。

40歳から落語を始める不安はもちろんあったけど、それ以上に魂が喜んでたんです。不安なんて感じないくらい、落語ができる! という喜びが勝ってました」

▲家族への感謝を口にする月亭方正

落語家としての生活のため、家族で関西に移住するという提案も一切反対せずについてきてくれた。家族の支えも、彼にとっては大きな力となっていた。その一方で、落語家としての活動と、テレビでの活動を両立させることには難しさを感じていた。

「八方師匠から“月亭方正を名乗っていい”と許可されてからは、落語をやるときは月亭方正、テレビに出るときは山崎邦正として出ていました。でも、落語家として高座に上がるときは<月亭方正(山崎邦正)>って出るんです。やっぱり山崎邦正の名前のほうが知られてるから。

でも、師匠がそれを見て“かっこ悪いよ”って。俺も月亭方正1本でいきたかったけど、渋っていて。正直、これはレギュラーだった『ガキの使い(ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!)』のため。『ガキの使い』は、世の中的にもそうやと思うけど、俺の中でもテレビ史に残る番組で、あの空気を俺が名前を変えたことによって変えたらアカン!って、ずっと思ってたんです。

やっぱり月亭の名前をもらうと、みんな遠慮しはるんです。事実、アッコ(和田アキ子)さんにも“月亭になってからイジりにくいわ”って言われて。それもアッコさんがきちんとお笑いに敬意があるからなんですけど、自分でも“そうやろな”って思いました。それで、師匠にも言われたから、ダウンタウンの二人に怒られても、月亭方正の名前でいきたいと伝えるしかない! と覚悟決めたんです」

2回目から出演し、初のレギュラー番組でもあった『ガキの使い』。彼がいかに『ガキの使い』という番組を大切にしているかは容易に想像できる。しかし、そんな悩みも杞憂だった。ダウンタウンとのやり取りをうれしそうに語る。

「松本さんには“自分の人生なんやから、好きにしたらええやろ”と。浜田さんにも“それ、おもろいやん”って。よう考えたら、名前を変えることに反対するようなちっさい人たちじゃない(笑)。

いま思えば、名前変えたくらいでダウンタウンさんが変わるわけないですよね。だって、改名したあとも松本さんは山崎って呼ぶし、浜田さんも山ちゃんって呼ぶ。月亭方正って1回も言われたことないけど、それでよかったなって思うんです」

ラブを受け取って自分の内面も変わりました

40歳は不惑と言われ、人生の方向性を見つける年齢と言われる。そして、50歳になると知命と言い、自分の使命が見つかるとされる。月亭方正も40歳で落語に出会い、50歳を超え弟子を取った。

噺家生活15周年を迎え、全国で落語会を開いて盛況を博している。5月31日(金)には、東京・伝承ホールで、ゲストに林家たい平を迎え、「噺家生活15周年記念 月亭方正落語会」を開催する。

俺は40歳で落語に出合って、突っ走ることができて本当によかったと思ってる。出合ってからは、その道筋をとにかく自分の努力と力で前進していくだけでしたから」

落語界では上下関係は一門を越え共通。師匠は「落語界全体にとっての師匠」、弟子は「落語界全体にとっての弟子」という一面を持ち、別の一門の師匠から指導してもらってもいい。その指導には大きな価値があると語る。

古典落語は“はい、これやってね”って全部くれるんです。例えば、志の輔師匠に『井戸の茶碗』という古典落語の稽古をつけてもらって、いただいたんですけど、おそらく志の輔師匠は、さらにお師匠さん、たぶん立川談志師匠からいただいてる。そうして、いただいた茶碗を磨いていくわけですね。

そうすると、この茶碗がダイヤモンドになる。師匠はそのダイヤモンドを、弟子とか、例えば違う一門である自分にも“はい、どうぞ”とくれるわけ。これって何十万、何百万、何千万の価値があるんですよ。それを無償でくれるのってラブでしかない」

落語の世界に身を投じたことで気づいた感謝の気持ち。そして、それを次の世代へ受け継いでいくことこそが、彼にとっての使命なのかもしれない。

「ラブを受け取ると俺の内面も変わってくるんです。当たり前だけど感謝の気持ちを持つようになる。テレビ時代は感謝というよりも、こなくそ根性だったんです。見返してやろうとか、噛みついてやろうとか。そこに感謝はなかったんです。

でも、落語を始めてどんどんダイヤモンドをいただけてる。ほんなら、怒りとかそんなのはなくなって、自然と感謝の気持ちが湧いてくるんです。日々、感謝して人生を歩める。これほど良い世界はないですよ。今は弟子もとって、今度は俺が与えていかな! と思っています」

▲ラブを受け取って自分の内面も変わりました

(取材&撮影:TATSUYA ITO)


▲噺家生活15周年記念 月亭方正落語会

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