映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』公開記念座談会:日本の音楽関係者が語るボブとレゲエ

左から鈴木孝弥、工藤 BigH 晴康、石井志津男(敬称略)

2024年5月に日本でも公開された映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』。この作品を見た日本のレゲエ関係者3名が映画やボブ・マーリー、そしてレゲエについて思う存分語る座談会を実施。その模様を3回にわけてお伝えします。

<座談会参加者>

■石井志津男(プロデューサー)
OVERHEATレコーズ主宰、雑誌Riddim誌発行。1985年から多数のジャマイカ人及び日本人レゲエ・イベント開催。ドキュメンタリー映画Ruffn’ Tuff監督。共著/監修本に『Rocksteady Book』、『Ruffn’ Tuff』、『レゲエ・ディスク・ガイド』など。
https://overheat.com/

■工藤 BigH 晴康(新宿・REGGAE / DUB club OPEN “校長”)

音楽評論や伝説のレゲエ・バンドHARDCORE REGGAEを始めアーティストとしても活躍。DJ活動はすでに半世紀に及ぶ。UKダブ・マスター=デニス・ボヴェルとの共同製作も定期的に行われており、1995年に発表された和ものラヴァーズ・レゲエの先駆けといえるイリア(元ジューシーフルーツ)の「Japanese Lovers」は、2016年についにアナログ再発。2018年にはサンディーのソロ・アルバム「HULA DUB」を共同プロデュース。
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https://www.instagram.com/haruyasukudoh/
https://ameblo.jp/club-open

■鈴木孝弥(ライター、翻訳家)

著書、監著書、訳書に『Reggae Definitive』『キング・タビー――ダブの創始者、そしてレゲエの中心にいた男』『定本リー “スクラッチ” ペリー』『レゲエ・アンバサダーズ~現代のロッカーズ――進化するルーツ・ロック・レゲエ』『宇宙こそ帰る場所──新訳サン・ラー伝』他。
https://twitter.com/Suzuki_Koya

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ボブ・マーリーとの出会い

―― まず最初に、自己紹介として皆さんにとってのボブ・マーリーとの出会いなどを教えていただけますか? ではまず石井さんからお願いします。

石井:うーん……覚えてない(笑)。ボブ・マーリーのレコードを買ったのは、70年代の中ぐらいだったけど。僕も奥手でして、エリック・クラプトンの「I Shot The Sheriff」ですね。勤めていた化粧品会社の宣伝をやっていた時に松山 猛さんが、そのPR誌に「クラプトンがウェイラーズの曲をカバーしている」と書いてくれて、それが大ヒットした「I Shot The Sheriff」。74年ぐらいですよね。それで知ったぐらいかな? だから遅いんですよ、僕は。

―― じゃあ最初はクラプトン経由で聞かれて?

石井:そうですね。本当に平均的なリスナーかもしれないです。ちらほら輸入盤は買うようになっていて、衝撃的だったのはやっぱり『Live!』かな? あとは来日した時の記者会見ですね。東芝EMIにいらっしゃった(アイランド・レコード)A&Rの三好さんとも仲良くなっていて、記者会見に呼んでくれて、見に行ったんですよ。わけもわからず(笑)。

―― どこでやったんですか?

石井:たぶん新宿のサンルートホテルでした。いわゆる金屏風みたいなすごく場違いな部屋に(笑)。だから生ボブ・マーリーを見たのは、それが最初ですよね。(音楽評論家の)田川律さんが入口でカメラを構えて待っていたのとかは覚えていますね。それと、渋公のライブですよね。だから、僕はどの曲というよりは、彼のライブを見て圧倒された。そっちの方が大きいですね。

―― リアルタイム世代ならではというか。羨ましいですね。

石井: 1945年にボブ・マーリーが本当に生まれていたとしたら、これ、諸説あるじゃないですか。ナインマイルって、行ったことある人ならわかるんですけど山の上の方で、その年に出生届を役所に届けないだろうなっていうようなところですよね。だから1年、届けるのが遅かったっていう説が本当であれば1歳上ですが、僕もたまたま同じ年に生まれてるから、音楽でいえばアメリカのポップスとかソウルとか、そういうものが流行っていく時期で同じようなものを聞いてたんだなっていう感覚はありますね。

―― なるほど。工藤さんは?

工藤:私もそうなんですよ。遅いは遅いんです。やっぱり衝撃を受けたのは日本公演でした。その前から、レコードはいろいろ聞いてはいたんですけども。やっぱり、何て言うんですか、このベースの音に絡んでくるあのボーカルっていうのは、やっぱり生で聞いた時にやられてしまいましたね。

―― 行かれたのは渋公ですか?

工藤:そうです。あと中野サンプラザと。あともう1ヶ所、たしかやったんですよね。

石井:厚生年金会館でやったんじゃないかな?

工藤:ですね。

石井:渋公とサンプラザは1日2公演やって、たしか東京だけでも6回やったんですよ。

工藤:そうです、そうです。

―― 海外アーティストが1日2公演って珍しいですね。

工藤:個人的にはボブ・マーリーを見る前に、カリフォルニアでピーター・トッシュを見てるんですよ。同じ79年なんですけども。で、79年の2月にピーター・トッシュを見て。それで日本に帰ってきたら、ボブ・マーリーが来るっていうので。「ああ、これはまた大変だ」って。で、来日公演はたしか4月でしたよね?

石井:そう。4月。

工藤:ですから2ヶ月後に今度はボブ・マーリーを見たわけですね。だから最初、ボブ・マーリーは割とちょっと冷静に見てたんです。ところが始まって、だんだん盛り上がるようになってくるんで。「ああ、これはやっぱりすごいんだ」っていう。個人的にはそういう体験を通して、やっぱりのめり込んだっていうんですかね。

―― それまで、ご覧になっていたポップスやロックとかのライヴとは何が違ったんですか?

工藤:やはりベースの音です。「これはベースの音が低くて太くていいな」というのがまずあって。その後に彼のメッセージを聞いたっていうような感じです。私の場合は。

―― なるほど。それまでは普通にアルバムを、LPとかを買われて?

工藤:そうです、そうです。

―― そこはでも、石井さんと同じなんですね。レコードで聞いていて、ライブでやられて……。

工藤:やっぱりあのライブはちょっと衝撃的ですよね。あれだけちょっと……。

石井:でも、僕はよく理解できなかったんだよね。

工藤:本当、そうですよね。

石井:わかんないんだ、見てもね(笑)。観たことないステージングの踊りとか……僕は普通にロックを聞いていた。ニール・ヤングだとかグレイトフル・デッドとか、そういうウエストコーストのやつやパンクとかとも全然違ったんですよ。音楽性って考えてもアイ・スリーズのコーラスとかもめちゃくちゃかっこよくて。「なに、これ? ソウルでもないし、ロックでもないし……」って、そういう衝撃ですね。

―― 鈴木さんはいかがですか?

鈴木:僕は来日公演も見てないし……その頃はまだ山形の中学生だったんで……。ボブ・マーリーについての一番古い記憶は『ホットドッグ・プレス』か『ポパイ』か、どっちかの雑誌で「今、レゲエが熱い」みたいな記事があったんですよ。で、そこにボブ・マーリーの写真があって、「へー!」って感じで。それが印象的でした。ラジオで「レゲエ」っていう単語を耳にしたりもしたけど、山形ではそんなレコードは売ってないし、聞く術がないわけです。なのでずっと、レゲエを聞きたいなとは思ってたんです。そこから18歳で東京に出てきて、それからしばらくして……ボブ・マーリーを最初に聞いた時はもう亡くなっていたんで、一番最初に聞いたのは、遺作だったっていう……。

自慢するわけじゃないですが、僕はレゲエにはまったのはボブ・マーリーじゃないんです。大学の同級生が「レゲエいいよ」って教えてくれて、それで「これとこれが俺はすごい好きだ」ってカセットを二本貸してくれたんですが、それが、バニー・ウェイラーの『Protest』と、フランキー・ポールの『Pass The Tu-Sheng-Peng』だったんです。だから、あの時の最高のダンスホールの最前線と、あとはマーリーではないウェイラーズの1人でレゲエが好きになったんですよ。

石井:僕は『Pass The Tu-Sheng-Peng』を日本発売してました。

鈴木:そうそうそう(笑)。だからあれでレゲエにはまったんです! ボブ・マーリーはそのちょっと後ですかね、本当に自分でレゲエを買い始めたときに、遺作の『Uprising』を最初に買ったのを覚えてます。完全に後追いです。「ああ、そうか。日本に来てたのか」とか、そういう後追いならではの悔しさがありましたね。それも手伝って、時間を取り戻すように熱心に掘り下げていったっていう……まあウェイラーズ全般にですけど。そんな感じでした。

1979年、ボブ・マーリー初来日当時の様子

―― 石井さんと工藤さんは来日公演をご覧になってるっていうことですが、当時、ボブ・マーリーとかレゲエとかっていうのは日本にどれぐらい根付いていたのでしょうか?

石井:根付いてはいないよね(笑)。

工藤:いないですね。

石井:でもジミー・クリフは先に来日してたんですよね? 映画『ハーダー・ゼイ・カム』をキティ(ミュージック)さんが日本に持ってきて。

―― 日本で公開したんですよね。

石井:そう。だからキティ・フィルムの前身って、その『ハーダー・ゼイ・カム』を1本だけ公開したんだよね。ジミー・クリフ自体もすごいし、映画も名作だから、それで知った人はすごく多いと思う。

工藤:ですよね。「レゲエ」っていう言葉を。

鈴木:じゃあ、マーリーより先にジミー・クリフが来ていて。あと、シマロンズも来ていたんですよね。そのぐらいですか?

工藤:万博で来て。

石井:まあ、そのぐらいでしたっけ。俺は行ってないです。

―― 万博で来ていたんですか?

工藤:ですね。シマロンズはたしか、万博で来ているんです。

―― 行かれたんですか?

工藤:いや、行ってないです。

鈴木:だからほとんど、たぶんレゲエって知られてないですよね。

工藤:やっぱりそれこそ「I Shot The Sheriff」が大きいんじゃないですか。エリック・クラプトンは大きいと思いますよね。みんな、あれをレゲエで聞いてないですからね。「エリック・クラプトンの曲だ」ぐらいで。

石井:で、誰かのカバー曲ぐらいの感じだと思うんですよ。

工藤:歌詞がそれこそ衝撃的な歌詞ですからね。「これをクラプトンが歌うのか!」ぐらいな印象だったんじゃないですかね。「その本人が今度、日本に来るんだ」ぐらいじゃなかったかな。それこそ、ラスタのことなんか全然わからなかったですよね。「あの髪の毛、なんでああなっているんだろう?」とか。

石井:そうそうそう。

―― 「ジャー」っていうのも情報がないので何もわからないですよね。

石井:東芝EMIの三好伸一さんが詳しかったよね。それで、ちょっと横にそれちゃうけど、2〜3日前ですが、ジャマイカの写真展を僕がやっていて、それをSNSに載せたら、御影マサ(雅良)さんっていう人が観に来てくれて、その人は原宿にあったアメリカの出版社クイックフォックスの責任者で、『レゲエ・ブラッドライン』を出した人です。『レゲエ・ブラッドライン』の一番最初の翻訳本を出して、その後にPヴァインから……。

鈴木:僕はPヴァインのやつを持ってるので……その最初のやつが出たのって、どのぐらい前ですか?

石井:その本の見返しのところにジミー・クリフにもらったコメントを載せているから、その年ですね。ジミー・クリフが来た時ですね。

鈴木:じゃあ、78年?

―― その1年後にボブ・マーリーが来日という。

工藤:そのへんですね。

鈴木:じゃあ、あんなしっかりした本がその時に出ていたっていうことですね?

石井:翻訳は中江昌彦さんがやっていて、Pヴァインがそれを再出版……。

鈴木:ちょっとだけ改訂して。

石井:たまたま何十年ぶりかに写真展に御影さんが来てくれて思い出しました。そういう、レゲエにとっていくつかの良いファクターはあったんです。そんなには売れなかったと思うけどすごく内容も素晴らしく立派な本だった。

鈴木:立派な本でしたね。

石井:でもあの本は僕らの周りはみんな買ってましたよ。

鈴木:僕もあれは最初の教科書です。あれは最初で最大の教科書ですね。

ボブ・マーリー逝去の知らせ

―― ボブ・マーリーが亡くなったことは皆さん、どこで知られたんですか? 当時。新聞とかですか?

石井:なんだったんだろう?

工藤:「ガンで危ない」っていうのは、なんか知ってましたね。

石井:SNSがないから、いつだったかは怪しいんですよ。

工藤:怪しいですね。たしかに。

―― テレビでやるほどの……お茶の間的な存在ではまだなかったですか?

鈴木:1980年にジョン・レノンが撃たれたのはNHKの7時のニュースで見てびっくりしたけど、ボブ・マーリーは、日本ではそういう風なニュースになるほどの人ではなかったですよね。

工藤:そうですね。

石井:僕は79年にNYで『ロッカーズ』っていう映画に出会って、80年に持ってきて初公開した後でしたが「レゲエはもう終わったんだ。ボブ・マーリーが死んだから、終わったよ」って言われたんです。それが本当に悔しくて。「いや、音楽なんだから人が1人ぐらい死んでも……」っていう気持ちがあって。

工藤:でもそれ、覚えてますね。「もうレゲエは終わった」って言われて。

石井:言われた。そのくらい日本でもスーパーアイコンだった。

工藤:そうですよね。その当時ね。「もうレゲエはダメなんだ。ボブ・マーリーは死んだから。あの人は亡くなってしまったから、もうこれは続かないんだ」っていうようなことはなんか、それは覚えてます。

石井:友達に言われましたよね。そのおかげで僕はそのボブ・マーリーの背後というか、レゲエを作っているその後ろが一番美味しいみたいな、氷山でいえば氷の一番上のところで光ってたのがボブ・マーリーだとすれば、その海水に隠れている何倍もの部分があって浮いている。「これがすごいんだ」っていうのがだんだんと、ようやく見えてきて。ジャマイカにも行くようになったり、手紙をやり取りしたりとかそういうことをしながらわかってくるんです。その時に、工藤さんも僕が発売するレコードにライナーノーツを書いてくれてたんですよ。なんにもわかってない僕の生き字引でした。

―― 鈴木さんは亡くなったことはどこで知りましたか?

鈴木:うーん。全然覚えてないです。漠然とどこかで聞き知ったんだと思いますけど、そもそも、のめり込んでないので。だから亡くなったことの重大性がまず、わかってないっていう。ただその昔、雑誌で見て、いつか聞きたいなと思ってた人に過ぎなかったんです。

石井:個人的な感情ですけど歳が同じだったから、亡くなった時に、ドキッとしましたね。どこで知ったかは覚えてない。「ああ、早い」と、そういうショックはありました。でもそれが、オンタイムなのかさえ覚えてない。今だったら「えっ、今日死んだの? 昨日死んだの?」とわかるんですけどね。

ボブ・マーリーとはどんな存在なのか

―― そんなボブ・マーリーなんですけども。魅力とか、一言で言うと何になりますか?

石井:最初に言っちゃいますと、彼は本当のスーパーアイコンなんです。今はたとえばディズニーがアニメーション映画を作ろうとしたら肌の色とか国籍もわからないキャラクターで作るじゃないですか。ボブ・マーリーは白人でもなく、黒人でもないわけですよ。良い方に考えれば、それだけで既に今の人種問題を自ら持っている。今ならすごく良いかもですが、だけど当時は今よりも大変だった。彼はナインマイルと言う山の上の楽器なんか見たこともないところで生まれたけど、母セデラは教会で歌い、祖父はヴァイオリンやアコーディオンを弾く人だったから自らも楽器を演奏して、人種も超えて自分で書いたリリックで人にものを伝えて、本当の意味でストリートミュージックの代弁者だと思うんです。

ロックアーティストとか、ブルースの人とかでも、色々いるけど、本当に山から出てきて、自ら作った曲にスポットライトを当てて、死んで47年経ってもいまだにそれが古くない「唯一の人」って言ってもいいと思うんですよね。ブルースだと隣のお姉さんの話とか、酒がうまいとか、まぁそういうのも僕は大好きで、むしろそっちが好きかもしれないけど。でも、ボブの今でも世界的に通用するリリックっていうのは別格だと思うんです。

―― 工藤さんはどうですか?

工藤:そうですね。うーん。ちょっと堅くなっちゃいますけども。メッセンジャーだと思いますね。時代から何から、その当時の音楽から何から、全てを見渡していて。で、その中から今もスッと取って、そのまま自分のこのフィルターを通して、また伝えるっていうような、そういうイメージがあるんです。さっき石井さんがいいことを言われていましたけども、氷山の一角が浮かんでいて、見えない部分も面白いっていうのがあります。実はボブ・マーリーのレゲエっていうのは、非常に特殊だと思ってるんですよ。彼しかない……要するに、彼のレゲエだと思うんですよ。他のレゲエっていうのは、ちょっと違うというか。だから、そのレゲエのいいところを本当にすくい上げて。あと他のロックもブルースもジャズも何も、音楽を全部すくい上げて。そのまま、自分がメッセンジャーとなって伝えているんだっていうような。

―― 鈴木さんはどうですか?

鈴木:僕は一言で言うと、もう一般教養の範疇にある存在だと思います。まず、単にレゲエの分野で見てもボブ・マーリーだけは別格で、本当にスーパーアイコンですよね。ただ、僕、今月キング・タビーの本を翻訳して出すんですが、その訳者あとがきの最後の方に……「ボブ・マーリーはレゲエを代表するかもしれないけど、レゲエの中心にいたのはキング・タビーの方だ」って書いたんですよ。で、まさにキング・タビーっていうのは氷山の下の見えないところの中心にいた人で、ボブ・マーリーの方は太陽の光を浴びてピカピカに光ってた。そういう意味で特殊な人であり、アイコンだけど、ボブ・マーリーにレゲエを全て代弁させることはできない。「レゲエといえばボブ・マーリーだよね!」って言われると、そこでもう話が続かなくなっちゃうつらさっていうのをレゲエ愛好家として感じてる……そんな存在でもありますね。

だから僕はさっき冗談めいて「僕が最初にレゲエにハマったのはボブ・マーリーじゃない、っていうのが自慢」って言ったのは、最初にバニー・ウェイラーを聞いて「すごいな!」と思った自分の感性をたぶん信じてずっとレゲエを掘ってきたんで、それに対する自負なんです。そういう意味からも、やっぱりボブ・マーリーっていうのはもう一般教養化した別次元なんですよ。レゲエというジャンル内で見ればそのトップというか、代表する人ではあるかもしれないけど、そこから中に入ってきて欲しい入口。音楽の範疇を超えて考えれば、チェ・ゲバラみたいな人じゃないですか、ある意味で、メッセージ的にも。だからこの映画が日本より先にヨーロッパとかアメリカで公開されて、あれだけヒットしたっていうのは……公開初日の興行収入がクイーン『ボヘミアン・ラプソディ』超えなんでしょう? ということは、やっぱりああいう超ポピュラーなバンドをもしのぐ期待値があったわけで、つまりマーリーはみんなの心に刺さる、ただの音楽家じゃない、メッセンジャーだったんですよね。

だから、もうジャンルを超えた一般教養だろうと……ビートルズと同じぐらいの……もちろん、売り上げの枚数とかね、いろいろとそれは計算すれば全然違うんだろうとは思うんですけど。存在として。今の若い人がビートルズをYouTubeで見て新人バンドと思い込んでたっていうニュースを読みましたが、それぐらいもう、新しい、古い、じゃなくて「いいものはいい」っていう感じでみんな捉えるわけでしょう? だからそういう、若い世代の感性に照らし合わせるとなおのこと、もうビートルズとほぼ同列の一般教養なんだという気がします。

*後日公開中編に続く

Written by uDiscover Team

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