タオルで即席の“肉体改造” 体重65キロ…細身のイケメン右腕が求めた恐怖感

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

牛島和彦氏は1年秋から浪商エース、大阪大会で惨敗のPL学園を近畿大会で撃破

1977年秋、浪商1年だった牛島和彦氏(元中日、ロッテ)はエースとして翌1978年の選抜切符をつかむ力投を見せた。大阪大会を2位で通過し、近畿大会準優勝。準々決勝で天理(奈良)、準決勝では1学年上の西田真二投手(元広島)、木戸克彦捕手(元阪神)を擁するPL学園(大阪)も破った。細身のイケメン右腕としても騒がれた牛島氏だが、実は密かに即席の“肉体改造”も行っていた。体重65キロの体を少しでも大きく見せようとタオルを活用していたという。

牛島氏が1年夏の大阪大会は5回戦で八尾に敗れた浪商だが、その年の秋の大阪大会は浪商、PL学園、大鉄、近大付の勝ち上がった4校による決勝リーグを2勝1敗の2位で通過した。1敗した相手は3勝0敗で1位のPL学園。「僕はノックアウトされたんです。近畿大会もあるから代わろうってなったんですが、結局1-16で負けました。PLとの力の差を感じましたね」と牛島氏が話したように完敗だった。

西田、木戸らのPL学園は翌1978年夏の甲子園を制覇した。準決勝の中京(愛知)戦は0-4の9回裏に追いついて延長12回5-4でサヨナラ勝ち。決勝の高知商(高知)戦は0-2の9回裏に3点を奪ってのサヨナラ勝ちと、2試合続けて奇跡的な勝ち方をしたことで“逆転のPL”の異名がついたことでも知られる。そのPLに大阪大会ではコテンパンにやられた浪商だが、近畿大会では準決勝で撃破した。

5-6の9回表に3点を取って8-6。まだ“逆転のPL”と呼ばれていない頃のPLに逆転勝ちで、大阪大会のリベンジを果たした。もっとも牛島氏は近畿大会4強入りによって、翌1978年の選抜出場が確実になっていたことが関係していたとみている。「甲子園が決まる試合だったら、また違ったと思いますよ。プレッシャーもかかりますからね。とにかく僕らの時のPLは強かったですから」。

決勝は村野工(兵庫)に2-4で敗れ、浪商は準優勝に終わった。牛島氏にとって、この大会で印象深いのは2-0で完封した準々決勝の天理(奈良)戦だ。「その時点で甲子園がほぼ決まったって感じでしたからね」。天理はもともと牛島氏が進学予定だった高校。いとこの恩師という関係から面識があった郡山(奈良)の森本達幸監督から「自分たちが甲子園に出られなくなるから奈良には来るな」と言われて変更したいきさつもあった。

細身の体に“細工”「お尻のところにタオルを入れていた」

その近畿大会では郡山も準々決勝で吉備(和歌山)を破ってベスト4入りを果たして選抜切符を獲得。準々決勝で浪商に敗れた天理は選抜出場を逃しているが、そんな大会で牛島氏は体にちょっとした“細工”もしていたという。「僕は体が細くてお尻もぺったんこ。相手から見たら迫力がないじゃないですか。僕から見ても、そういうピッチャーには恐怖感みたいなのはなかったですからね。ちょっとでもどっしりと見せようとお尻のところにタオルを入れていたんです」。

ハードな練習で「太れないし、食べられないし……」ということもあったという。日々の練習に加えて、土、日は練習試合に登板。「もう球数を減らしたいばかり。そうじゃないと体が持たなかったですからね。ちょっと際どいところに投げれば高校生は振ってくるんで、打たせてとろうとやっていました。ホント、あの頃は65キロくらいでしたからねぇ。お尻にタオルを入れたのは2年生の選抜の時もやっていたと思います」。

1978年選抜大会で、浪商は1回戦で高松商(香川)に0-3で敗れた。完投した牛島氏は、右手人差し指のマメがつぶれていたという。「そんなに知識もなかったし、マニキュアを塗ったりとかいろいろやりましたけど、やっぱり痛かったですね。まぁ、でもそれが原因というわけではないですよ。結局は打たれています。2年春の選抜なんか、130キロくらいしかスピードが出てないですもん。いうほどバンバン抑えるピッチャーじゃなかったんです」。

2年春に甲子園を経験できたのは大きなプラスになったが、その夏は4回戦で初芝に3-4で敗戦。西田、木戸らのPL学園とは戦うこともできなかった。「選抜には出ましたけど、まだ、その頃は大阪を勝ち抜けるまでの実力はなかった。こんなんじゃ駄目だと思いましたね。先に点を取られたり、ホームランを打たれたりとかがありましたから、そういうのはなくさないといけないってね」。悔しい結果に終わった夏をバネにして、秋からの巻き返しを期した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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