【日本サウナのルーツは奈良時代にあった】とある女性の社会福祉事業から始まった「愛のサウナ物語」

奈良の法華寺。じつは日本のサウナは、この場所にまつわる「愛の物語」から始まった(写真AC:shinchan812)

「日本は熱い湯船に浸かるお風呂文化の国だ! サウナなんて所詮、最近の流行りもんでしょ?」なんて思っている人は結構多い。

でも、じつは現在のような湯船に浸かる入浴スタイルが一般的になったのは江戸後期からで、それ以前は蒸し風呂(サウナ)が主流だったことはあまり知られていない。

言ってみれば、今は江戸後期から続く「温湯浴ブーム」の真っ只中。サウナの方がずっと歴史は古く、その源流はなんと奈良時代にまで遡る。今回は、日本サウナ誕生の歴史と、それにまつわる一つの愛の物語を紹介する。

■日本のサウナは仏教伝来とともに誕生した

日本の風呂の歴史を辿ると奈良時代に行き着く。その頃の蒸し風呂は、地域によって「石風呂」「竈風呂」「からふろ」などの名称で呼ばれており、窯の中を一度熱したあとに海水に浸したむしろを引いて入るものや、大釜を煮立たせて作った蒸気を小屋の中に引き入れて蒸気浴をするものなどがあった。焼けた石に水をかけて蒸気を発生させる蒸し風呂(今でいうフィンランド式サウナ)も存在したという。

その時代に蒸し風呂文化が花開いた背景は、仏教伝来に由来する。インド仏教では沐浴が重要な行為とされ(風呂に入ることは七病を除き、七福を得るという教えがある)、大きな寺院の隣には浴場が設けられ、そこで施浴(貧しい人々や病に苦しむ人々に温浴を提供して入浴の手助けをすること)が行われていた。仏教が伝来すると、それに倣って奈良の大寺院には蒸風呂が造られ、この施浴が盛んに行われるようになったのだ。

■法華寺の浴室(からふろ)

その中でも有名なものが、法華寺の浴室(からふろ)だ。法華寺は奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后である光明皇后が750年頃に造った寺院で、その近くに浴室も造られた。

浴室内部には、湯を沸かす2つの大きな釜と、蒸気を浴びる2つの浴室があり、6人ずつ入ることができる。蒸気で身体を温め、発汗を促して身体を清潔にするというシンプルな仕組みだ。

余談だが、この浴室使用時に、すのこ板の間から上がってくる熱い蒸気でお尻が火傷しないように敷いた布が「風呂敷」の語源だ。そして、貴人が入浴のときに着た肌着が、「浴衣(ゆかた)」である。浴衣は元々外で着る衣装ではなく、文字通り入浴中に着るものだったのだ。

■光明皇后の千人施浴伝説

法華寺を建立した光明皇后は、初の皇室外出身の皇后(美智子様や雅子様の先駆けの存在)で、信心深く慈愛に満ちた女性だった。薬草を栽培して病人を治療する「施薬院」や、貧困層や孤児を救う「悲田院」を造ったのも彼女で、女性社会福祉活動家の先駆けとしても知られている。

天然痘が猛威をふるっていた当時、光明皇后は「人々のために功徳風呂を造り、1000人のからだを洗いなさい」という仏のお告げを受けて浴室(からふろ)を造った。そしてそのお告げ通り、貴賤を問わず老若男女1000人の民の垢を自らの手で丁寧に洗ったのだ。

やがて最後の1000人目として入ってきたのは、病気で身体中が膿んでいる老人だった。しかもその老人は、「この膿を口で吸って綺麗にしてくれ」と言ってきたのだ。流石にお付きの人は止めたが、皇后はその手を振り払ってすべての膿を口で吸い出した。すると老人はピカーっと光って、阿閃如来(あしゅくにょらい)に変化した。そう、この膿だらけの老人は薬師如来の化身だったのだ。

この「光明皇后の千人施浴」以降、流行り病は沈静化し、浴室(からふろ)はその後も多くの病人を癒やしたのである。これがある意味、日本サウナの誕生の瞬間(?)と言っても過言ではない。日本のサウナは、1人の女性の愛から生まれたものなのだ。

■現代でも体験できる「からふろ」

現代でも、この「からふろ」を体験できる場所がある。サウナの老舗ウェルビー今池店と福岡店では、光明皇后の故事に倣って、法華寺の浴堂をモチーフにした蒸し風呂を提供している。

今池店のからふろ内部(写真:サウナ&カプセル ウェルビー公式Xより)

千有余年の時を経て現代に甦ったからふろで、光明皇后の愛に思いを馳せながら蒸されてみてはどうだろうか。

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