横浜大空襲79年 93歳、初めて語る体験 「何があっても戦争はいかん」

29日の「横浜大空襲祈念のつどい」で自らの体験を初めて語る笠原さん=13日、横浜市金沢区

 米軍のじゅうたん爆撃によって横浜の市街地が猛火に包まれ、8千人以上とも、1万人以上ともされる死者が出た横浜大空襲から29日で79年を迎える。当時、中学3年生だった笠原實さん(93)=横浜市金沢区=はきょう、自らの体験を初めて人前で語る。あの日見た、地獄絵図のような光景をこれまで家族にも話せずにきた。だが罪のない民の命が奪われる世界情勢を憂い、決心した。「これ以上惨禍を起こさないために、伝えることが必要だと思うのです」

 1945年5月29日。その日は朝からよく晴れていた。

 5人きょうだいの末っ子だった笠原さんは当時、県立第一横浜中学校(現県立希望ケ丘高校)の3年生。安立電気吉田工場(同市港北区)に学徒勤労動員され、無線通信機を組み立てていた。

 午前10時ごろ、警戒警報が鳴り響いた。解除後、すぐ帰宅するよう命じられ、同市保土ケ谷区の自宅まで走った。両親と姉と落ち合い、近くの富士見丘高等女学校(現横浜富士見丘学園中学校・高等学校)に避難した。

 わずか1時間で43万8千個余りの焼夷(しょうい)弾を投下された市街地の被害は甚大だった。中・南・西・神奈川区を中心に猛火に襲われ、山手地区と山下公園周辺を除いて燃え尽きた。人口の3分の1程度に当たる約31万人が被災した。

 数日後、他の児童生徒と共に負傷者援護に当たることになった。5、6人でリヤカーを押し、中・西区を駆けずり回り、負傷者を乗せては看護救護所の病院に運び込んだ。虫の息の男性、顔にひどい火膨れを負った女性、焼夷弾が直撃したのか、腕の骨があらわになっている男性…。市民を容赦なく傷つける戦争の無慈悲さを初めて目の当たりにした。「当時の映像が頭に流れてくるくらい、今でも鮮明に覚えている。思い返すのが、とにかくつらい」

 戦争は、大切な家族をも奪った。長兄と次兄はともに徴兵され、上海と南洋方面で戦死した。23歳と22歳。「これからって時に…」。笠原さんは唇をかむ。

 長兄の死はアジア太平洋戦争開戦直後。骨つぼには遺骨が納められ、遺品や勲章も届けられた。「戦意高揚のため、各地で葬儀も盛大に執り行われた」

 その後、戦況が悪化。次兄の骨つぼには何も入っていなかった。「命の重さは同じはずなのに、扱われ方がまるで違った」

 母は信じようとせず、復員船の引き揚げ情報を耳にするたび、浦賀港に足を運び、次兄の姿を探し続けた。「その姿が目に焼き付いている」

 あれから79年。世界では今も紛争が絶えない。ロシアによるウクライナ侵攻や、パレスチナ自治区ガザで続くイスラエル軍とイスラム組織ハマスによる戦闘は、多くの罪なき命を奪い続けている。その数は公表されただけでも数万人規模。笠原さんは嘆く。「一人を失っただけでもつらいのに、それが何万人もいる。もう地獄ですよ」

 時代を経ても続く愚行への危機感が、笠原さんの背中をそっと押した。29日に横浜市中区で開かれる「横浜大空襲祈念のつどい」で、自身の体験を初めて語って聞かせる。伝えることは決まっている。「何があっても、戦争はいかんと思うのです」

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