夫の死に続いて次々に〈悲劇〉が襲いかかるも…『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子がそれでも「教壇」に立ち続けたワケ

(※写真はイメージです/PIXTA)

4月から放送が開始された連続テレビ小説「虎に翼」。その主人公のモデルとなった「三淵嘉子」は、夫の病死後も教壇に立ち続けました。がむしゃらに働き続け、ようやく心の傷も癒されたかに思われましたが……本記事では、青山誠氏による著書『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)から一部抜粋し、三淵嘉子を襲った「悲劇」についてご紹介します。

家族のために再起

明治大学では昭和19年(1944)に専門部から女子部を切り離し、名称を明治女子専門学校に変更していた。その年に嘉子は助教授として迎えられている。女子部を存亡の危機から救った恩人であり、彼女に憧(あこが)れ法律家をめざして入学する女性は多い。教鞭(きょうべん)を執ってもらえば宣伝効果が十分に期待できる。

芳武が生まれて1年が過ぎており、体調も元に戻って働ける状態だった。が、弁護士業はあいかわらず開店休業状態。暇を持て余していたようだ。母校愛の強い彼女だけあって、大学側から申し出があればそれを断る理由はなかったのだろう。

終戦後も、疎開先から帰ってくると再び教壇に立つにようになった。登戸から駿河台の明治大学まで、空襲で痛めつけられた鉄道の速度は遅く、事故や故障が日常茶飯事。客車の窓はあちこち割れて床には穴が空いていたりする。車内は買い出しなどの大きな荷物をかかえた人であふれ、体臭や食物から発する臭いが充満して息がつまる。近距離の移動でも現代のようにはいかず、苦渋を強いられた。

夫の病死が伝えられてからも、講義のほうは休むことなく、満員電車に揺られて大学に通いつづけた。

その心の内には後輩を指導する責任感、悲しみを忘れるための逃避、等々。様々な思いが錯綜(さくそう)していたことだろう。また、未来を再構築しようという前向きな感情も芽生えはじめていたのではないか?

夫が復員してくれば、大学を辞めて専業主婦になり子育てに専念しよう。2人目の子どもを授かることだってあるかもしれない。愛する夫と子どもたちに囲まれて幸福な家庭を築く。と、そんな未来を想像していた。しかし、それはもはや叶かなわない夢。この先、何をめざしてどのように生きてゆけばいいのか、途方にくれる。

いつまでも父母に頼ることはできない。1950年代頃、日本人の平均寿命は60歳といわれていた。当時、多くの企業では55歳が定年。貞雄は終戦の翌年に還暦を迎えていたから、当時としては〝老人〞といって差し支えない年齢になっていた。また、同居する弟たちのうち次男・輝彦は軍隊から復員してきたばかり、他のふたりの弟もまだ学生でこちらにも金がかかる。

息子の芳武だけではない。父に代わって自分が一家の生活を守らなければならない。と、しだいにその思いが強くなっていた。そのためには仕事をしなければならない。

働かなければ生きることができないことは、過酷な疎開生活で骨の髄まで思い知らされた。息子のため、家族のために嘉子は大学の教壇に立ちつづける。

日本初の女性弁護士である嘉子は、もはや学生たちにとって生きる伝説。法律を学ぶ女子学生たちがめざす未来像が、教壇に立って講義をしているのだ。嘉子の言葉を聞き漏らすまいと必死にノートを取りながら、熱い視線を向けてくる。教室内のはつらつとした空気に嘉子の傷心は少しずつ癒(いや)されていった。

嘉子を再び襲った「悲劇」

しかし、夫の死につづいて悲劇がまた彼女を襲う。治りかけた傷口に塩をこすりつけられたような気分だったろう。

昭和22年(1947)1月19日に母・ノブが亡くなった。何の予兆もなく突然に。母は老いても元気で、家事をよくこなし孫の世話をしながら過ごしていたのだが、庭先で洗濯物を干している時に突然倒れて、そのまま亡くなってしまったのである。脳溢血(のういっけつ)による突然死だったという。

嘉子が家の中で唯一敵かなわない相手が母だった。お転婆や無作法なことをやらかしてよく𠮟られた。しかし、口うるさいのは自分を心配してくれているから。小言を言いながらも親身になって色々と世話を焼いてくれる。そこには深い愛情も感じていた。

また、悲劇はこれだけでは終わらない。同年の10月28日には、ノブの後を追うようにして父・貞雄も亡くなってしまう。貞雄は酒が好きだった。ノブがいなくなってからは悲しみを酒で忘れようとしていたのか、酒量がかなり増えていた。その死因は肝硬変によるものだったという。

激情家の嘉子だけに、夫を亡くした時と同様に号泣したはず。だが、泣いてばかりはいられないことも悟っている。これからは父母に代わって、自分が家族の面倒を見ないといけない。ますます責任を感じるようになっていた。

そのためには兎(と)にも角にも、仕事をつづけることだ。しかし、仕事にやり甲斐(がい)を感じることができなければ、それを生涯にわたってつづけるのは無理。どこかで萎(な)えてしまうだろう。いまの教授の仕事はどうか、それだけで自分の仕事に対する欲求を満足させられるだろうか? そう考えるようにもなっていた。

学生たちと触れあう日々の中、法律を学び始めた頃のことを思いだす。法律の知識を使って人々の役に立つことをやってみたいと、かつて漠然と考えていたこと……。自分にはそれが向いているような気がする。それが天職なのかもしれない、と。

青山 誠

作家

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