1ヵ月の入院が半月のびたが無事退院、私もそれに合せ3週間の休みをもらった。
祈願だったラーメンも早速作って食べていたし、私の作った料理を「旨っ」と以前の様にたいらげた。すっかり断酒もし、元気になっていった、と思っていた。
ダンナが1ヵ月後に還暦を迎えることもあり、こんな良いタイミングはない!と急遽、近場の温泉へ1泊旅行に出かけた。
病み上がりで以前の様に元気ではないものの、美味しい料理、温泉を家族水入らずで満喫し楽しい思い出がいっぱいの旅行になった。
翌日から私は仕事に復帰。ダンナは準備した昼食を食べてはいたがベッドに横になっている事が多くなる。
夜も眠れない様子だったが1日中横になってるからと不思議とも思わなかった。私も3週間ぶりの仕事で疲れもあり、それ程気にも留めずにいた。
3日程すると用意した食事にも手を付けなくなり、声かけにも「うん」としか言わない。明日具合悪かったら病院へ連れて行くからと留守を息子に頼み、久々の夜勤へ。
翌朝、明けで電話を入れるが応答なし。いつも夜勤明けは体のメンテナンスのため整骨院へ寄っていたが、まっすぐ帰ることにする。
テーブルには準備した「おじや」がそのまま置いてあった。病院に行くか尋ねると「オウ」と一言。フラついて立てないダンナを支えながら準備をした。この時ばかりは、介護の仕事をしていてよかった……と思った。
やっとの事で駐車場まで行き、車に乗せ10分程の病院へ。
てきぱきと車椅子に移乗、診察を待つ。主治医はあいにく休暇中で、代わりの医者の診察を受けることになるが、ダンナは病院に着いて安心したのか、よくしゃべる。
仕事に復帰して日中の様子が心配で入院させてもらいたい私は
「元気と思われるけん、あんまししゃべらんと」
と注意したくらいだった。案の定、医者は
「入院したいのー?」
と気乗りしない様子の所を、頼みこんで、どうにかOKをもらう。
「これで安心」
とダンナも私もホッとした。
病棟は前回と同じで看護師長が息子の友達の母親ということもあり
「またお世話になりまーす」
と挨拶し、入院準備のため一旦、自宅へ帰る。
入院が決まり安心し、笑顔すら浮かべて病院に戻った私に
「先生からお話があります」
と妙に真剣な表情で看護師長が言った。診察室では、さっきまで入院をしぶっていた医者の表情とは、あきらかに違う。嫌な予感がした。
「肝臓の数値がとんでもなく悪く、突発性細菌性腹膜炎―今週が山です。長くても2週間―」
思いもよらない余命宣告。
今週って、今日が金曜日だから―日曜日ってこと? へっあと3日!ってこと―? いまいち理解できない私の背中を看護師長が無言でさすってくれていた。
マジか―泣ける―。どこか現実とは思えない私がいた。と同時に、みんなに知らせなきゃと冷静な自分もいた。
こんな事になるとは思わず、義姉や自分の親にもへたに心配させたくないと話をしていなかったのだ。入院して安心しているダンナに悟られるわけにはいかない。
ダンナには
「姉からたまたまこっちに来る用があると連絡があり、入院を伝えたらお見舞に来るってよ」
と話すと、姉2人の末っ子ダンナは一言「おこられる」とびびっていた。
いつもの鬼嫁らしく
「自分のせいやろー知らんし!」
と笑顔すら見せながら退室。自分でも女優か?と思う程完璧な演技に看護師長から誉められた。
その後、あちこちへ連絡。弟からは
「なんやそれ! 余命ってこと?」
と驚かれる。
「そう余命……」
と力なく答えるしかなかった。娘と息子にも話をする。うちの家族はダンナも含め、みな介護と医療系の仕事をしており、取り乱しながらも、どこか冷静に受け止めていた。
それでもコロナ禍、この状況でも1日1回30分の面会しか許されなかった。
日曜日、姉たち3人がPCR陰性の証明を持ってお見舞に来てくれた。ダンナは心配させたくなかったのかベッドに座り話をし、別れぎわにはバイバイと手を振り見送ったとのことだった。
姉たちに心配させたくないというダンナの優しさだったのだろうが、私たち家族が面会に行った時は、ずっと目を閉じ、眠っているのか痛みに耐えていたのか、一言も発せず。
ただその姿を見守りながらも、職業柄、尿量や浮腫などバイタルチェックをする冷静さも持ち合わせていた。
どうにか最初の山の3日間を越えることができていた。
病院からの連絡もなく、娘は翌日にひかえた孫の入園のため、他市へ帰っていった。息子らは仕事。
たった1人静まりかえった部屋で、その時がいつなのかわからないまま、ダンナの頑張りを祈っていた。
※本記事は、幻冬舎ルネッサンス主催『第2回短編エッセイコンテスト』大賞受賞作品、有村 月氏の『59才 失くした物と得た物』より、一部抜粋・編集したものです。