59才 失くした物と得た物 【連載第3回】 「先生からお話があります」と言われ、なんだか嫌な予感が…。

その日、いつもの様に14時からの面会へ。

痛むらしく話はできず。明日? 明後日? あんまり良くない気がして娘に電話して早目に孫を幼稚園に迎えに行かせ、テレビ電話をする。

私たちの声かけには何の反応もみせなかったが、さすがに愛してやまない孫の「じじー」の声には、少ーしだけ目を開いて見ていたが声は出ず、痛みが強いのかスマホを手で払うような仕草をする。30分程で面会を終え帰宅。

息子と、明日の朝までもつやろうか―。もっても次の日1日は無理かもねとダンナの状態から、妙に冷静に話をし、意見が一致する。

そんな中でも、明日戻ってくる娘家族のため、買物を済ませ、夜中の呼び出しに向け、荷物や着替えを準備し、ソファーに座る。時計のカチカチという音だけが響いていた。

1時間程がすぎただろうか、看護師長から「呼吸が少しおかしいから、あんただけでも付き添っておけば?」と連絡が入る。こんな時さえもコロナ禍だということを思い知らされる。

息子らに話をし、すぐに家を出る。が、またすぐに電話。「今どこ?!」と看護師長のあせった声。ふるえる手で息子に連絡を入れ病院へ急ぐ。いつも10分もかからない距離がひどく遠くに感じる。私の可能な限りの全力疾走してみるが、玄関では検温の機械が行く手をはばむ。

「あーめんどくさ!」とつぶやきながらも、真面目な性格。OKがでるまでその場で足踏みして待つ。ドラマの中で病院の廊下を走るシーンでは「ダメやろう、走ったらー病院よ」とブツブツいいながらポテチを食べてる私はそこにはいない。勢いよくドアを開けると看護師長が心臓マッサージを行っていた。

「間に合わなかった―」

え? 私に何の挨拶もなく?

とにかく全身の力で大泣きしながらも、この世に、ほんの足先だけ残っている様なダンナをブンブンとベッドがゆれるくらいゆすっていた。

「ありがとう」も「ごめん」も、「後はたのむ」も、そして肝心の通帳のありかも……何1つ聞いていない。ドラマみたく手を握ってありがとうなんて望まない。ただ一声だけでも最後に聞きたかった。ただそれだけ―

余りのゆさぶられ方で、もう逝ったか?と思われたダンナは、小さく息をした。それを見た看護師長と私は「よし」とばかりに気合いを入れた。看護師長は「息子たちがまだ来とらんよー頑張れー」と。私は「何も聞いとらんよー」と必死だった。

長ーい呼吸をひとつ。「あっ、今逝った」と私にはわかった。アラーム音の中心臓マッサージを続けてくれていた看護師長に「ありがとう」とお礼を言った。さっきまでとはうって変わって静寂が病室を包んだ。

知り合って38年、結婚して35年。59才11ヵ月で、何の言葉も残すことなく静かに死んだ。

エンゼルケアのため退室する私に、友人から看護師長に戻った彼女から、葬儀社を決めて連絡をとる様、話がある。そうだ、悲しんでる時間はないと現実にもどり、あちこち連絡を入れる。談話コーナーの窓には、きれいな夜景が広がっていた。

だれもがただの体調不良でその内もどってくるだろうと思っていたから、どこに電話しても相手の「えーっ」という絶叫が響いた。そうだよね。伝えてる私も信じられないもんと、うなずいた。

 

お通夜、告別式。

幼なじみや職場の方々、私の友人もかけつけてくれた。コロナ禍の中でも無事にとり行えたことは本当に有難いことだった。

私にとっては酔っぱらってすぐにその辺で寝るやっかいなおっさんだったが、職場や友人の間では人気で、私の好みの顔ではなかったが「イケメン」だった。遺影も雑誌にのった時の物で、初めてみる私の職場の人間からは「ダンナさん良か男―」と驚かれていた。

出棺―息子たちや私の弟、幼なじみに抱えられ、お別れのクラクションが物悲しく響いた。

次に見たダンナは火葬を終えていた。それはまるで理科室の骨格標本みたいに立派で、思わず笑った。

元々、ガッシリとした体格で長患いもしていなかったダンナのそれは、今まで見たこともない程みごとだった。だから骨壺も1番大きな物を選んでいたが、余りにもしっかりした骨ばかりで入らなくなり、係の人も「そろそろ―」と言葉を挟んだが、娘は「パパが困る」と真剣な表情で力一杯、壺の中の骨をくだき、全部の骨を収めた。

娘の行動に驚きながらも、以前専門学校の授業で人体解剖があった夜に、平気な顔でハンバーグをほおばっていた娘を思い出した。―さすがである。

娘の愛で満タンに入った骨壺は、この上なく重かった。


※本記事は、幻冬舎ルネッサンス主催『第2回短編エッセイコンテスト』大賞受賞作品、有村 月氏の『59才 失くした物と得た物』より、一部抜粋・編集したものです。

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